logo After THE BARN #8 - From Silverboy to SCRATCH



親愛なるSCRATCHへ

昨日は雨だった。先週あたりから急にぐっと涼しくなったし、昼の陽射しも随分弱くなって、辺りには秋の気配が漂い始めている。ヨーロッパの短い夏は終わった。まだしばらくはその名残を楽しむこともできるけれど。

今日は近くの森を散歩した。生い茂った木々が覆うなだらかな起伏を1時間近く歩き回った。時折ジョギングのランナーや犬を散歩させている人に行き会う他には人影も物音もなく、僕は森閑とした酸素の濃そうな空気を胸の奥まで吸いこみながらいろいろなことをとりとめもなく考えていた。もちろんこの往復書簡のことも。

SCRATCH、久しぶりに君から届いた手紙を読んだ。今回のツアーで披露された「クラシックス」について、それぞれがどんな経緯、どんな意味あいで演奏されたのか、君の考えがいつもながら的確に表現されていて僕は感心してしまった。僕が台湾で足裏マッサージに悲鳴を上げている間に、君はアメリカで何かを見定めようとしていたのだろう。

でも、僕が最初に君に示した疑問は、今も僕の中に解けずにある。最初の手紙で僕はこんなふうに書いた。

「今回のツアーで『Rock & Roll Night』や『SOMEDAY』が歌われたことの意味はどこにあったのか。『ガラスのジェネレーション』や『スターダスト・キッズ』が演奏されなければならなかったのはなぜなのか。(中略)ツアーがスタートしたとき、その曲目はストイックなまでにアルバム『THE BARN』からのレパートリーで占められていた訳だし、僕もそのことに納得していた。しかしながらツアーが進むにつれてキミの言う『クラシックス』が増え始め、ファイナルでは『大蔵浚え』の状態にまでなったらしいじゃないか。それはいったい何を意味しているのか。(中略)考えようによってはそれは、あくまで新しいアルバムによって勝負するという当初の『潔さ』が貫徹されずに、結局予定調和的な大団円になだれ込んでしまったのだと見られないこともない」

佐野元春が常に同時代的なアーティストであろうとするのなら、その表現は常に時代の波に洗われ、時代のスピードに磨かれた鋭敏な刃として世界に対峙し続けなければならない。そして同時にその中心にはどれだけ時代を経ても変わらない強い固有性と確信がなければならない。「THE BARN」は、スタイル的には確かにアメリカン・ルーツ・ロックに根ざした、ある種レイド・バックしたたたずまいの作品だったけれども、その表現の核には、同時代的な危機意識と佐野自身の成長の軌跡との連続性がきちんと同居している素晴らしい作品だったと思う。

だから僕は、今回のツアーがほとんど「THE BARN」アルバムからの曲だけで構成されていることを知ったとき、そのことに何の疑問も抱かなかったし、むしろそうあるべきだと納得していたのだ。そして、本編で唯一初めから演奏されていた「Rock & Roll Night」については、君と議論する中で、そうした佐野の「成長の軌跡」そのものを象徴する「リング」として僕もその意義を受け入れることができたのだった。

でも、「SOMEDAY」はどうだろう。「スターダスト・キッズ」はどうだろう。それらが、あえてこのツアーで演奏されなければならない強い必然性、強い同時代性はどこにあっただろうか。もちろん、神戸で震災の被災者に対するエールとして、あるいは自身の誕生日へのプレゼントに対する返礼として、「SOMEDAY」を演奏することぐらいはあっていいのかもしれない。君も言う通り、この曲がある意味で「特別」だということは、好むと好まざるとにかかわらずもはや佐野自身ですらおそらく認める事実だろうからだ。

しかし、それでも僕はこの曲が本編で演奏されたことにいまだに強い違和感を覚える。実際にライブを見た訳ではないから(ここが決定的に弱いとこなんだけども)その場のライブの雰囲気や流れといったものは確かに分からないけれど、この曲はやるとしてもせめてアンコールで演奏されるべきだった。特別な曲であればあるだけ、佐野はこの曲の扱いにもっとナーバスでなければならなかったはずだ。

単純なファン心理として、この曲をライブで聴きたいという気持ちはよく分かる。僕だってそうだ。だが、アーティストがファンのそうした情緒的な期待におもねって過去の曲を予定調和的に演奏するだけなら、それはもはや進歩を止めた伝統芸能の夕べでしかない。そのような罠にはまったアーティストの表現は、いずれみずみずしさを失い、そのアーティストは同じヒット曲を繰り返し演奏するだけのディナー・ショー・シンガーになって行くだろう。

僕は、それが佐野自身の表現の更新のために必要なら、佐野元春が「クラシックス」をもう二度と、一曲たりとも演奏しなくなったって構わないと思っている。それらはどのみちCDに入っているんだし、過去のライブでの思い出は結局僕自身の中にあるのだから。そして思い出の再生産を求めて今のライブでの演奏を期待しても、それが佐野自身の中でもはやリアリティのないものであれば、結局そこにはディナー・ショー的価値以上のものはあり得ないのだから。

ライブからそのような要素をまったく排除してしまえというのは確かに極論かもしれない。そこまで目くじらを立てなくてもいいのかもしれない。でも、「THE BARN」がスタイル的にこれまでのアルバムと異質な作品であっただけに、そしてそれが優秀な作品であっただけに、そこに「SOMEDAY」を持ちこんでしまうことは結局自らそれを予定調和的なお約束の世界に引きずり降ろす危険をはらんでいると言わざるを得ないのではないだろうか。

SCRATCH、君の考えを聞かせて欲しい。

Silverboy



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