logo 「THE BARN」をめぐって



佐野元春は常に優秀なオーガナイザーであり続けてきた。それまで日本で一般に知られていなかったロックやソウルの名曲、優れたアーティストを、ラジオDJとして、文章を通じて、あるいは自らの音楽活動の中で紹介し続けてきた。佐野の音楽のフォーマットが決して完全にオリジナルなものではなく、そうしたポップミュージックの歴史の連続性の上に築かれた果実であることは明白だ。それはまた、佐野がロックンロール・ジャイアンツの遺産を、日本というロックの辺境で、しかも日本語という異端言語で、しかし精神性という意味ではきわめて正統に、継承しているロックンロール・チャイルドであるということもできるだろう。

「THE BARN」は、佐野がこれまで果たしてきた日本におけるロックンロールの伝道者としての役割を考えるとき、最も容易に理解できると思う。ウッドストックという共通の原点を持つミュージシャンたちが集い、バンドとして新しいグルーブを獲得し始めたとき、その初めてのアルバムをその場所で制作しようと考えるのは自然な成り行きであったに違いない。そこにおいて、そのアルバムが後にどのように受け止められるかということは二次的な問題でしかない。そこでは、まず、彼ら自身が共有できる幸福な体験から、どのような音が紡ぎ出されて行くかということこそが重要だからだ。

その結果、「THE BARN」はアメリカン・ルーツ・ロックに深く根ざした作品となった。佐野がこれほどまで一つの傾向にのめり込んで制作したアルバムを、僕は「VISITORS」以外知らない。佐野は思いこみの激しい、ある意味で非常に純粋なアーティストである。ウッドストックという場所が佐野にどのように作用したか、それは佐野がやはりNYという異境で制作した「VISITORS」に張りつめるあの異様な緊張感を考えれば察しがつく。もちろん「THE BARN」と「VISITORS」とでは音楽的な方向性は180度違う。しかしホームグラウンドを離れ、情況的な制約を取り払って、自らの内なる音楽に忠実に制作したという点でこの2枚のアルバムはまるで双子のようによく似ているし、その結果前後の作品との脈絡を欠いたものに仕上がったという意味でもその相似性を指摘しない訳には行かない。

僕はこれまで何度か、この「THE BARN」というアルバムが、ロックのメイン・リスナーであるべきティーンエイジャーにどう響くのかということについて、あるいはロックが本質的にその属性としているべき今日性という観点からいくつかの疑問を示してきた。それはこのアルバムのあまりにレイドバックしたたたずまいが、もしかしたら「良心的な音楽ファン」や「コアな佐野元春ファン」にしか評価されず、このアルバムがそのような本来のロック・マーケットと幸福な接点を持つことなく終わるのではないかという危惧から発した問いであった。

しかし、佐野がこれまで果たしてきたロックンロールの伝道者としての役割を考えるとき、このアルバムもまたロックンロールの豊穣を日本の若いリスナーに示す優れた作品であるということができる。それは、ウッドストックに身を置くことで、自分がただの点でなく、ロックンロールの流れにつながった線の上の存在であることを感じることができると言った佐野の言葉とも符合して行くだろう。現代のティーンエイジャーと言うとき、その内実は実際には定義不能な多様性に満ちている。その中にロックンロールの豊穣によって癒されるべき、あるいは救われるべき魂は確かに存在するはずだし、「THE BARN」はその扉となることのできるアルバムだ。

それにまたこのアルバムは、古い意匠の中にきわめて今日的な問題意識を内包している。それは例えば「誰も気にしちゃいない」という曲に端的に表れている。この曲で佐野は、誇りをなくした子供たち、悲鳴を上げる母親たち、夢をなくした国、庭を荒らされても何も言えず、大事なことが何も知らされない、そうしたことを一つ一つ取り上げながら、しかしもはやその責任を誰かに問おうとはしない(「突っ走って行くだけのメディア」の責任をすら)。佐野はただ「どうしてかなんて聞かないで なぜなの?とはきかないで」と歌い、「せつない、ただせつない」と嘆いてみせるだけなのだ。

しかしこれは決して佐野が何かをあきらめたということを意味していない。それはつまり、利害が複雑に錯綜し、知らない間に自分も社会の側に組み込まれている現代社会のシステムの中で、もはや一義的な「悪」や「敵」は存在し得ないということを前提に、情況的な問題そのものより、その問題と対峙する自己の問題意識の方にこそ佐野の主体的な関心が移りつつあるということなのではないかと僕は思う。それらはすべて情況や社会の問題ではなく、僕たちの主体性、コミットメントの問題であり、本質的に内面的な問題なのだ、現象はその鏡に過ぎないのだと佐野は看破したのだ。ラスト近く、佐野は「ここはサーカス小屋じゃないんだよママ それはただの気取りさ」と高い声で歌う。それはそんな情況を他人事のようにしか批判できないテレビの前のあなた自身に向かってこそ突きつけられたナイフ・エッジなのである。(尚、この曲は神戸の小学生殺害事件のことを歌っているのではないかという興味深い見方があることを付記しておく。卓見であると思う。この人の考えていることは僕の考えと近いのではないだろうか)

「VISITORS」が発表されたとき、僕は大学に入って見知らぬ街で一人暮らしを始めた直後だった。僕にはそのアルバムがそれまでとはまったく異なったタッチの作品であるということすら意識できず、ただ佐野元春が2年ぶりにリリースしたオリジナル・アルバムとして、初めて自分で買ったアルバムとして、毎日ひたすら聴き続けた。狭いワンルームで、スーパーマーケットで、電車の中で、佐野の発する一つ一つの言葉、一つ一つの音に耳を澄ませることで、僕はその場所を自分の場所にすることができた。そのようなやり方で、僕は癒されていたのだと思う。

「THE BARN」もそのように受け入れられるべきアルバムなのだ。このアルバムがすべての十代の魂にぴったり同期するとは僕は思わない。しかしそのことはこれまでの佐野のどの作品だって同じことだっただろう。「SOMEDAY」だって、「約束の橋」だって、モードとしての上積み部分はいつかはがれ落ちて、そこに残るコアは結局いつもマスの中の一部に過ぎないのだ。だがそれがマスの中の最も良質な一部を確実に獲得して行くならば、それはいつかマス・システムをビートすることになるだろう。そして佐野はそうしたやり方でシステムをビートする闘いを続けて行くだろう。そうである限り、僕は佐野元春を基本的に支持して行く。

このアルバムをウッドストックから持ち帰ったどこかの時点で、佐野はこのアルバムがレイドバックしている、現代のリスナーに受け入れられるだろうかという評を耳にしたに違いない。僕は佐野がアルバムの発表前に異例のクラブ・サーキットを実施したのも、いつになく精力的にメディアに露出してプロモーションを行ったのも、このアルバムこそがそれを必要とする人の許に間違いなく届かなければならないと言う強い信念のゆえだったのだと思っている。

レコードはまわり続けている。音楽は鳴り続けてゆく。ロックンロール・スピリットは継続していくはずだ。少なくとも僕はそう信じている。



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