logo After THE BARN #9 - From SCRATCH to Silverboy


 
 

 SCRATCHより親愛なるSilverboyへ 元気にしているかい?

先日「THIS!'98」に行ってきた。僕らのように社会人となり、自分の好きなことの為に使える時間が(時には予算も)限られる身にとって、このイベントは新しい世代の音楽に触れるまたとないチャンスだ。おおいに楽しませてもらったよ。今年は初めての試みとしてCATVによる完全生中継が行われ、公式サイトは「海賊放送」と称してインターネットにキャッチしたばかりのライブ音源をのせた。HKBによる新曲の演奏こそなかったけれど、佐野元春はきょうも新しい何かに挑戦し続けている。

君からのメールを読ませてもらった。僕が予想していたとおり、やはり君の中にある疑問は全て解決されてはいないんだね。でもそれは仕方がないことだと思う。前の2通のメールで僕は「クラシックス」について、個別に演奏の意味を追っていった訳だけれど、それはある意味では通り一遍の理屈でしかなく、それで全て納得できるほど人間の感性は単純なものじゃない、ということなんだろう。特に、自分が強い愛着とこだわりをもっているものに対峙するとなれば尚更だ。僕は頭を初期化して検証に臨めと言ったけれど、それは望む方が無理というものなのかも知れない。

Silverboy、メールから察するに、君はやはり「クラシックス」の中でも特に「SOMEDAY」の演奏意義について納得がいっていないようだ。そしてその裏には、以下の文章に端的に表された「佐野元春はこうあるべき」と君が想い描く佐野の姿と「SOMEDAY」をステージで演奏することが相容れないものなのではないかという強い懸念があるように僕には感じられる。でも、それは決してそうじゃない。そうじゃないってことを、君は逆に前のメールで僕に教えてくれたんだよ。

「佐野元春が常に同時代的なアーティストであろうとするのなら、その表現は常に時代の波に洗われ、時代のスピードに磨かれた鋭敏な刃として世界に対峙し続けなければならない。そして同時にその中心にはどれだけ時代を経ても変わらない強い固有性と確信がなければならない。」

君の言うとおりだ。だが、もし佐野がその「どれだけ時代を経ても変わらない強い固有性と確信」を逆に「SOMEDAY」の中に見い出しているかもしれないと僕が言ったら、君は果たしてなんと言うだろうか。

僕らはかつて「成長の軌跡」を象徴する曲として「Rock & Roll Night」の話をしたことがあった。だがそれは、僕らオーディエンスの立場からアーティスト佐野元春を見つめた視点であり、そこで語られた「成長の軌跡」は佐野自身のそれに他ならなかったはずだ。だが世の中には当然ながら逆の視点も存在している。立場を逆にして、佐野がステージから僕らオーディエンスを見て「成長の軌跡」をひしひしと感じる瞬間があったとしても、それは何の不思議もないことだろうと僕は思うんだ。

ツアーの後半、結果的にローテーション入りしてしまった形となった「SOMEDAY」を唄う時、佐野はいつも決まってこんな話をしていた。

「きょう来てくれたみんなの中には、僕の唄を10年、15年と長く聴き続けてくれている人もたくさんいると思う。ここから見ていると、女の子たちは昔に比べて少し、お化粧が上手になって、男の子たちはがっしりした、スーツがよく似合う身体つきになっていて…みんな僕が何を言おうとしてるのか判らないって思ってる?僕がまたステージの上で、訳わかんなくなっちゃってとんでもないことを言い出したって、そう思ってるんだろ?僕は成長の話をしたいんだ。」

僕はリアルタイムでこの話を聞いていた頃、佐野が何を言いたいのか全く理解できなかった。最初のうちは「SOMEDAY」を演奏するために体のいい、照れ隠しの言い訳をしているのかと思って苦笑いを禁じ得なかったくらいだった。だが、君がくれたメールを読んで僕は目から鱗が落ちたような気がする。佐野は「SOMEDAY」の中にオーディエンスの「成長の軌跡」を見ていたんだ。それが言いたくて、ステージでこんなすっとんきょうな話を繰り返し繰り返し、続けていたんだよ。

もしかすると、3/14の時点ではまだ佐野は「SOMEDAY」をローテーションに入れるつもりはなかったのかも知れない。ただ純粋に誕生祝いに対し自分にできる目一杯のお礼として、特別にこの日だけこの曲を唄うつもりだったのかも知れない。しかし、十数年の時を超えて変わらず客席から聴こえてくる歌声や手拍子に君の言う「変わらない強い固有性と確信」を感じた時、佐野は「SOMEDAY」はやはり外すべきではない、唄われるべきだという決断をしたのではないだろうか。君が言うように、アーティスト佐野元春の表現に時代に即して更新されるべきものと受け継がれるべきものがあるとするなら、佐野はこの曲を「受け継がれるべきもの」と位置づけたんだと僕は思う。だからこそ、その後のライブで曲順をあえて変更してまでもこの曲を唄い続けたんじゃないのかな。君のような疑問を抱く人がおそらくいるであろうことも全て承知の上でね。

名古屋のステージで、このツアーで初めて「SOMEDAY」を聴いた瞬間、僕は「えっ、やっちゃうのかよ。」と思った。その時僕が率直にそう思ったことは紛れもない事実だ。でもこうして君と話していく中で、僕は逆に、佐野がこの曲を独自の信念をもって唄い続けているんだということを強く実感している。そして僕はそれならそれでいいと思っているんだ。「ファンが聴きたがっているから」なんていう曖昧模糊とした受け身の理由ではなく、佐野が自分の中から発せられる強い決意と信念に沿って「SOMEDAY」を唄い継ごうとしているのなら、佐野元春の意志としてそうするのならば僕はそれでいい。あとはその信念の行き着く先をこの目で見届けるまでのことさ。僕にできることはただ、それだけだからね。

さてSilverboy、僕が今まで述べてきたことを君が受け入れてくれたとして、しかしなお、おそらく君の疑問はまだ全て解決されていないんじゃないかな?
君のメールからは「SOMEDAY」が本編のレパートリーとして演奏されたことに対する抵抗感と同時に、そのことがどんな理由であれ結果として予定調和的な大団円を生んでしまったのではないか、佐野とバンドの初志であったはずの「THE BARN」アルバムに対する自負とこだわりを佐野が自らの手で捨て去る結果になってしまったのではないかという非常に強い危惧が感じられる。

でも今、僕はその疑問にはっきりと解答しておく。それは違う。

Silverboy、君は残念ながら、僕が横浜のライブレポートで使った「大蔵浚え」という表現の意味を取り違えている。君は「このツアーで演奏されてきた"クラシックス"をほぼ総動員の状態で演奏した」ことに対する表現としてこの言葉を解釈したようだけれど、僕が言いたかったのは実はそういうことじゃないんだ。 でも、君が誤解してしまうのも無理はないかも知れない。僕は君に情報を充分に提供していなかった。僕の言いたかった「大蔵浚え」を本当に理解してもらうためには、アンコールだけでなくこの日の演奏曲目と曲順を全て、君に見てもらう必要があったんだよ。

4/14の横浜"ファイナル"の演奏曲目リストを改めて提示させてもらうのでこれをよく見て欲しい。何か気がつかないかい?本編では振替公演のスペシャル・プレゼントであった冒頭の3曲、景気づけの"身も蓋もないロックンロール"「DOWN TOWN BOY」を除いて、HKBサウンドと胸を張って言い切れない曲はひとつとして演奏されていないんだ(「DOWN…」も見方を変えればアナザーサイドのHKBサウンドといえるかも知れない)。しかもこの日の曲順は普段と完璧に逆転していて、本編の中盤から終わりにかけてのハイライトともいえる時間帯を「THE BARN」アルバムの曲が占めるような曲構成になっている。そして「SOMEDAY」はもちろん「約束の橋」のような、それまで本編で非常に重要な役割を担い続けていたはずの曲に至るまで、お馴染みの過去の曲はことごとくアンコールに追いやられているんだよ。

僕はこの日のアンコールについて、曲目のあまりの豪華さ、曲数の多さにライブレポートでは「第2部」などという表現を用いたりもした。この表現は確かに、ライブ直後の僕の偽らざる気持ちだった。自己弁護に走るようで恐縮だけれど、興奮した頭でこの演奏曲目を端から書き出して眺めたら、古くからの佐野ファンならそういう表現をしたくなってしまうのも人情というものだろう。しかしライブの基本原則に立ち返って考えれば、いくら内容が充実していようとも所詮アンコールはアンコール、ある意味ではおまけに過ぎない。アーティストが本当に聴いて欲しい何かは必ず本編の中にある。そうだろ。君だってそう考えたからこそ「SOMEDAY」の本編レパートリー入りに抵抗を示したんだろうと思うんだ。

だがツアーの最後の最後に、佐野はその本編をこれでもかというほどコテコテの「THE BARN」サウンド−今のHKBが最も自信をもって世に出せる音−で徹底的に固め、圧倒的なパワーをもって僕らの前に突き出してきたんだ。この日の「THE BARN」からのナンバーは本当に凄かった。アンコールの演奏も確かに素晴らしかったけれど、本編のそれに比べたらやっぱりおまけの域を出ていないと今更のように僕は思っている。

僕は横浜のアンコールを表現する言葉として確かに「大蔵浚え」という言葉を使った。だけど間違えないで欲しい。それは本編が凄かったからこそ感じたことなんだ。この日の本編は時間にして約2時間、その内容の濃さは「こいつらきょうはアンコールを演らないつもりなんじゃないか」とも「"佐野が酸欠で倒れたのでアンコールはできません"と言われても文句は言えないな」とも思えたほどだった。その状況で更にそれから1時間もの時間をかけ、3回に分けた7曲ものアンコール(3回7曲というのは僕が記憶している限り回数、曲数ともツア−最多)、しかもこの演目だ。僕は「こいつら本当にすっからかんになって帰るつもりなんだな」と思った。その気持ちを端的に表現したのが「大蔵浚え」という言葉だったんだ。

もし僕が、このツアーで参加した16回のライブで聴いた全チューンを1列に並べてベストテイクを選べと言われたら、何の迷いもなく横浜で聴いた「ヤング・フォーエヴァー」を選ぶだろう。名古屋で聴いた"Happy Birthday"入りのメドレーでも、その翌日全会場が一体となって唄った「SOMEDAY」でもない。大阪でジョンやガースが参加したナンバーもステキだったけれど、それでも遠く及ばない。ライブ終了から4か月半を経た今、THE BARN TOURと聞いて僕の中に鮮明に浮かぶのは横浜の「ヤング・フォーエヴァー」−小田原豊の廻りからバキバキと殻の破れる音がしたように感じた、あの一瞬のHKB6人の姿なんだ。

だから佐野とバンドが「THE BARN」アルバムに対する自負とこだわりを捨て、予定調和に走ったのではないかという君の疑問には、僕ははっきりと「NO」の解答をしたい。今のバンドにとって最も大切なサウンドが「THE BARN」の中にあることは佐野もバンドも最後まで決して忘れちゃいなかった。だからこそ、もっとドラマチックで確実に盛り上がる展開はいくらでも考えられたのに、佐野は最終日の曲構成をこのようにしたんだと僕は思う。
考えてもみてくれ。この日「SOMEDAY」が始まったのは3度めのアンコール、22時前だぜ。会場側から規定時間オーバーを理由に演奏を差し止められたとしても、観客が帰りの時間を気にしてアンコールを要求せず帰ってしまったとしても時間的には何の不思議もない。必ず演奏できるという確信は佐野自身にだっておそらくなかったはずなんだ。予定調和を期待するなら、もっと確実に演奏できる時間帯にこの曲をもってくるはずだろ。「勝負はあくまでも"THE BARN"からのナンバーでかける。その上で"クラシックス"を演奏できるならなお好し」それが最後まで佐野とバンドの意志だったと、僕は固くそう信じているんだ。

7月中旬、ツアーの大阪"ファイナル"を収録したビデオが発売となり、それによって約1年にわたる「THE BARN」プロジェクトは一応の決着をみた形となった。このビデオがいつごろ君の手許に届くのか僕には判らないけれど、君にはぜひこれを早く観てもらいたい。この中にはHKBの"今"が詰まっている。僕が3か月半の間夢中になって追い続けた、メンバー6人のステージでの無言の会話や駆け引き、そういった微妙な呼吸の数々がもの凄い密度で詰め込まれているんだ。本当に、いつ観てもワクワクするようなビデオだよ。
そして、このビデオの収録曲は、佐野が作詞したジョン・サイモンの新アルバム収録曲「So Goes The Song」を除いてその全てが「THE BARN」アルバムからのナンバーで占められており、「クラシックス」は1曲たりとも収録されていないことを最後に君に報告しておきたいと思う。

それじゃ。また今度。
 
 

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