logo Zooeyのための暫定ノート


「Zooey」は無防備なアルバムだ。無防備で、開けっぴろげだ。

『虹をつかむ人』を初めてライブで聴いたとき、「街には音楽が溢れてるけれど 誰も君のブルースを歌ってはくれない」という歌詞に僕はヤられた。その歌詞は僕の気持のどこか手薄なところを確実にヒットし、僕の意地はぐらりと大きく傾いだ。自然に涙がこぼれた。ああ、これはオレのことだ、と僕は思った。

今の仕事がそんなにイヤな訳じゃない。給料はちゃんともらえてるし住む家もある。休みにサッカーを見に行くくらいの余裕はあるし子供は真面目に学校に通っている。とりたてて何か問題を抱えてる訳でもない。だけど、それでも、いや、だからこそオレが抱え込んだブルースがある。ここはどこなんだ。これは何なんだ。そんなブルースはだれとも分け合えない。そう、街には音楽が溢れてるのに、誰もオレのブルースを歌ってはくれないのだ。

僕はきっとやわになっていたんだろう。僕は自分を憐れんでいたのだろう。誰かに認められ、労って欲しかったのだろう。誰かに「それでいいんだよ」と赦され、受け入れられたかったのだろう。

それは僕が最も嫌っていたはずの感情だった。それは自分の不完全さをだれかに埋めてもらおうとする弱さの連帯だ。自分の痛みと厳しく向き合うよりは、似たような寂しさを持つ誰かを探して身をすり寄せ合うことで、生ぬるいもたれ合いの中に自分を溶かしこもうとする相互依存だ。

そんなところに答えはない、僕たちが佐野の歌を契機として探し続けてきたものはそんな湿っぽいなぐさめ合いじゃなかったはずだ。

そういう意味でこの曲は、少しばかり僕たちの「泣き」を求めてくるようにも思える。一緒に泣くことで何ごとかを分け合ったかのような気分にさせる、この曲はそういうリスクをはらんでいる。

「誰よりも 正直で
 誰にでも 分け隔てなく
 ときどき君の そんな無邪気さが
 裏目に出てはつまずいている」

そこまで正直でも無邪気でもないよ、と僕は思う。正直でも無邪気でもないからこそブルースを抱えている。この歌はどこか遠くにある虹のことを歌っているように思える。佐野がそこに見ようとしている人間像と、僕たちの生活の実相は少しばかりズレてしまっているようにも思える。

佐野はしかし、そこには頓着しない。僕がこのアルバムを無防備だと思うのはそんなところだ。「こんな歌を作ってみたんだ。どうだい」という佐野の声が聞こえてくる。リスクのある曲だ。しかし、それをポンと放り出して見せる胆力のようなものが、逆に今の佐野元春の輪郭を際立たせているのではないかと僕は思う。

虹は常に虚像だ。それをつかむことができないことくらい小学生だって知っている。それは僕たちが今までずっと追い求めてきた真実やら自由やら約束の橋やら黄金色の天使やらと同じように、決していつまでたってもつかむことのできないものなのだ。だが、そのことを最もよく知っているはずの佐野が「虹をつかむまであともう少し」と歌う。そうだったよ。僕たちの夢はいつでも「あともう少し」の物語だったじゃないか。

この無防備なアルバムを僕は愛する。その無防備さを強引に押し通してしまえるだけの通用力、表現力をこのアルバムは手にしている。何もかもが無欠、無謬でなくてもいい、そこにあるそれを、それはそれとして受け入れ、先に進む力、このアルバムの原動力はそんな自由さ、そんな大らかさなのではないかと僕はにらんでいるのだ。

「大らかな人生を夢見てる君」と佐野は歌う。何があっても一笑して赦してしまえる力、それを僕たちは手に入れたいと思っている。もちろん、そんなものは簡単に手に入らない。手に入らないもののことを佐野は歌い、僕たちはそれを聴く。虹をつかむまではあともう少しなのだから。

そして、あの歌詞はようやく僕の中で収まりのいい居場所を見つける。誰もオレのブルースを歌ってはくれない。当たり前だ。僕はもうそれに涙しない。なぜなら、オレのブルースを歌うのはオレ以外にはあり得ないからだ。



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