Zooey 前作「Coyote」から実に6年のインターバルをおいてリリースされた通算15枚目のオリジナル・アルバム。先行シングルとしてiTunes Storeでリリースされた『La Vita é Bella』『世界は慈悲を待っている』を収録。 パッケージとしてはアルバム本体('ZOOEY' MASTER)、インストルメンタルとデモを収めたボーナスCD('ZOOEY' LANDSCAPE)、DVDの3枚をセットにした「デラックス盤」と、アルバム本体とDVDのみのセットである「初回限定盤」、アルバム本体のみの「通常盤」がリリースされている。 また、ネット上の特設サイトにアクセスし、アルバムに封入されていたカード記載の番号を入力すると、特典として『虹をつかむ人』のアンプラグド・バージョンがダウンロードできる。 レコーディングは前作同様のメンバー(深沼元昭(g)、小松シゲル(d)、高桑圭(b))に渡辺シュンスケ(kb)、藤田顕(g)、大井洋輔(per)を加えたバンド形式で行われ、このメンバーには前作のタイトルを冠した「THE COYOTE BAND」という名前が与えられている。アーティスト名のクレジットは「MOTOHARU SANO & THE COYOTE BAND」。 このアルバムはそのクレジットの通りバンドの成長、成熟が素直に表れた作品だと言っていいだろう。まず特徴的なのはギター・ドリヴンなサウンド・プロダクションである。特に『ポーラスタア』や『ビートニクス』などの曲では破れた音のギターのリフを核にしたロックンロールを聴かせる。藤田を加えてツイン・ギターになったバンドの特徴がよく表れた、このアルバムの看板とでも言うべき曲だ。 佐野はこれまでほとんどの曲でサックスをリード楽器としてフィーチャーしてきたし、それを生かした都会的な表現は佐野の大きな特徴のひとつだった。独善的なマチスモに陥りがちなリードギターという表現を佐野は注意深く避けてきたし、サウンドの構築においても歪んだギターはどうしてもそれが必要な場合にしか用いてこなかった。 しかし、このアルバムで佐野はサックスをただの1曲も使わず、2本のギターが縦横に絡み合うハードでラウドなサウンドを躊躇なくたたきつけてくる。それはもちろん佐野がマッチョなハードロックに宗旨替えしたということではない。自分より10歳ほども年下のバンドのメンバーとともにレコーディングとツアーのサイクルを回す中で、佐野は、自分の表現を流通させるための強さとしなやかさを兼ね備えたギターの鳴らし方を発見したのだ。 それは、彼らが奔放にギターを鳴らしてもそれが自分の表現の核を損なうことはない、むしろそれはリスナーの胸の、これまで届きにくかった領域を直接キックすることで、佐野の表現の可能性を広げるという確信、バンドへの信頼があったからだろう。そしてその背景には彼らがスタジオ・ワークとロードの中で少しずつ積み上げた佐野の音楽への共通理解があったはずだ。 そうした信頼感に支えられた表現の広がりが見られるはラウドなギター・チューンだけではない。『虹をつかむ人』での抑制されたオーソドックスなフォーク・ロック、『君と一緒でなけりゃ』でのタメの利いたファンク(この曲での深沼のリード・ギターは特筆に値する)、『詩人の恋』での情感豊かなバラード。ここにはバンドが前作から確実に成長を遂げたその軌跡が刻み込まれていると言っていいだろう。 そこにはバンドのメンバーたちの佐野への自然な敬意が窺える。佐野の音楽を理解し、その本質にあるものを尊重しながら、その上で、だからこそ遠慮することなく自分たちのマナーをそこにぶつけてくる。その化学反応が佐野の音楽の新しい色彩を引き出す。そのような幸せなバンド・マジックが、このアルバムの表現を清新なものにし、間口と奥行きの大きな広がりを作りだしたのは間違いない。 アルバム・タイトルの「Zooey」は2006年に35歳で夭逝したHAL FROM APOLLO '69のギタリストzoeにちなんだもの。佐野によれば「『ZOOEY』とはギリシャ語の『ZOE(ゾーエー)=いのち』を語源とする。この『ZOE(ゾーエー)』は生物学的な命ではない。生物学的な命が終わっても、決して消え去ることなく輝き続ける命を指している」。 生き延びること。生きることのくっきりとした輪郭を焼きつけること。「いのち」と名づけられたこのアルバムは、佐野のそんな切望をかたどったものだと言っていいだろう。 例えば『虹をつかむ人』で佐野は繰り返し「大らかな人生を夢見てる君」と歌う。ここで佐野が言う「大らかさ」とはどのような心のありようのことなのだろう。 「大らか」であるというのは、何でもかんでも許して受け入れるというのとは少しばかり違うように思う。かつての自分が一喜一憂していたできごとが、今となってはもはやどうでもいいことになっている。しかし、そのときには思いもよらなったような種類のできごとに今は頭を悩ませている。かつて大事だと思っていたことが実は大したことではなかったのが分かり、もっと大事なものが他にあることが分かってくる。 そうした自分の目の前の一喜一憂をひとまず捨象し、どうでもいいことと本当に大事にしなければならないことを自分自身でしっかり見極め、峻別して行くことのできる力のことを、佐野は「大らかな人生」と呼んだのではないだろうか。 もちろん、そのような「大らかさ」は簡単に手に入るものではない。いや、僕たちは死ぬまで目の前の些事に煩わされ続けるだろう。だからこそ僕たちは「大らかな人生」を夢見る。身も蓋もない人生応援歌にすら聞こえる『虹をつかむ人』や女性観としてはいささか一面的にも感じられる『スーパー・ナチュラル・ウーマン』、ジーン・ヴィンセントかジョン・レノンをすぐに連想させる『Zooey』など、これまでの佐野なら周到に避けて通ったであろう「ベタ」な表現も臆することなく取り入れたのは、佐野に「もはやそんなことはどうでもいい」という確信があったからではないか。 あるいは『世界は慈悲を待っている』で佐野は「Grace」という言葉を多用する。「Grace」は「慈悲」というよりむしろ「恩寵」。「恩寵」とは、ある日突然神から与えられる祝福だ。そこに理由はない。代償もない。それは付加的なものであり一方的なものでありただ与えられるものである。それは佐野が『La Vita é Bella』で「君が愛しい」ことに「理由はない」と歌うことと通底している。 佐野はもはやそこに理由を求めない。なぜならもともとそこには理由なんてないからだ。愛情は恩寵と同じく理由もなくそこにあり、代償を求めずにただ与えられるものだからだ。そしてそれは、ロックンロールが理屈や理論を抜きに僕たちの感情の核をいきなりキックすることとパラレルだ。だからこそロックンロールは愛を歌う資格のある音楽なのだ。 「革命」への言及も見逃せない。かつて「さよならレボリューション」と歌った佐野が、その30年後に「革命は静かに始まっている」と歌うことの意味は重い。このあまりに象徴的でそれ故にリスクの高い言葉を、佐野はその表現の中にその最も尖鋭的な形で取り入れたのだ。 この『詩人の恋』と名づけられた曲で佐野は「私たち」という異例の一人称を使った。不毛な党派闘争が終焉した時代にデビューし革命に別れを告げた佐野が、今、「ともにいる」ことを確かめる「私たち」とはだれのことなのか。そして革命は何のために、どこで組織されるのか、組織され得るのか。佐野はもちろんその答えを歌いはしない。 詩人は言葉を日常から一度ひっぺがし、たたいたり伸ばしたり裏返したりしながらその意味を洗い直して行く者。言葉の喚起するイメージを、まるで慈しむようにひとつひとつ丹念に紡ぎだすこの曲に『詩人の恋』とタイトルをつけた佐野元春の表現の力を、僕たちは信じて行くのだ。 このアルバムは、もはや余計なことに煩わされることなく、生の本質、生き延びることへの希求をストレートに表現した佐野のステートメントだ。「大らかさ」も「Grace」も「革命」も、その意味で理解できる。率直に、ストレートに、できるだけ生の核に近いところに直接切り込んで行くことを求め、そのひとつの答えを示した作品だ。 2013-2023 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |