logo 10/10 ZEPP東京 ライブ・レポート


その日はさえない一日だった。いや、ひとことで言って最低の一日だった。仕事でひどいトラブルを抱え、休暇を返上して一日中ドタバタと走り回り、ようやく解決のメドがついたときにはもう夕方近くだった。昼メシも食べ損ねてしまった。おまけにその責任はだれに押しつけることもできなかった。結局僕の読みが甘かったのだ。僕はぐったりと疲れた身体を引きずってお台場に向かった。

ZEPP東京に着いてもその疲れは容易に去らなかった。むしろそこに集う人たちを見たとき、僕は自分がひどく場違いなところに迷いこんだような、頼りなく不安に気持ちになった。パンフレットを片手に上気した顔で挨拶を交わしあっている楽しげな人たち。この人たちは何を見にここへやってきたのだろう。いや、他人の心配なんかしている場合ではない。僕はいったいここで何をしているのだろう。僕にとって9年ぶりの佐野のライブ、だけど僕はそれを自分のためのものだと実感することができなかった。

開演前、座席で落ち合った連れと話をすることで僕は少しずつそんな苛立ちをクール・ダウンすることができた。仕事のことは次第に頭から離れ、会場を少しばかり冷静に見渡してみることもできた。でもそこに集まった人たちと自分との距離は縮まることがなかった。僕はきっと自意識過剰だったんだろう。だけど周囲がライブを目前にした「熱」に浮かされれば浮かされるほど、僕は自分の中に「ライブを楽しみにしている無邪気な心」が見当たらないことを感じずにはいられなかったのだ。

ライブは「Please Don't Tell Me A Lie」で始まった。佐野は髪を短くし、椅子に腰かけて、低いトーンでどちらかといえば淡々と歌った。まるでアンプラグド・ライブを見ているような感じだった。「99ブルース」、「風の手のひらの上」とセットリストが進んで行くうちに会場には静かな興奮のようなものが広がっていったし、僕自身も声にならない声でそうした曲を口ずさみ始めていたが、そこにはまだ互いの出方をうかがっているような固いトーンが残っていたと思う。

僕の中で何かが氷解し始めたのは4曲目の「ボヘミアン・グレイブヤード」が演奏されたときだった。僕はこの曲を佐野が何かを「葬った」重要な作品だと思っているし、何よりこの曲の哀しみをたたえた楽観性のようなものが好きだ。今日佐野がこの曲で「まるで夢を見てたような気持ちだぜ」と歌ったとき、僕は生の佐野から離れて過ごした9年間のことを思った。遠いドイツの地で、何の因果か勝手なファン・サイトを立ち上げ、いい加減なレビューを書き散らしながら、自分と佐野の距離を何度も自分の歩幅で測り続けてきた時期のことを思った。そしてその9年間が今、目の前であるべき場所に収まって行くような奇妙な感覚にとらわれたのだ。

その感覚は、スローなファンクにアレンジされた「TONIGHT」を聴いたときさらに確かなものになった。僕は佐野が今でも僕にとって切実なアーティストであることを実感することができた。アルバム『VISITORS』の中で唯一と言っていいほどフレンドリーでポップに響いていたこの曲は、しかしその後のライブではほとんど演奏されることがなかった。僕もこの曲をライブで聴いたのは今回が初めてだった。だがこの曲は知らない間に成長していた。うねるようなファンクに乗せて「No more pain, tonight」と佐野が歌うとき、それは今のニューヨークが、いや、アメリカが、世界が抱え込んでしまった困難な「イタミ」を思わせた。「霧に包まれたダークネス いくつものヒューマン・クライシス」というフレーズはこの上もなく政治的に響いた。この瞬間、僕は佐野が時代とフックし、僕とリンクしているという確信を持つことができた。この日のベスト・パフォーマンスだったと思う。

休憩をはさみ、スポークン・ワーズの「ベルネーズソース」で第2部は幕を開けた。3曲目に披露された「だいじょうぶ、と彼女は言った」は僕の好きな曲だ。この曲は何か静かな「決意」のようなものを感じさせる。「大丈夫」という言葉には強い力がある。本当は何も大丈夫じゃないのに、その情況を引き受けながら自分を鼓舞して行くようなギリギリのオプティミズムがある。「よろしくとだれかが手を振るよ」と小さな声で口ずさみながら、僕は涙を流していた。なぜだか分からない。そんなものはくだらない感傷だろう。だけどそのとき僕の中を何だかよく分からない感情の塊みたいなものが去来していたのは確かなことだ。「くよくよ悩む必要なんかないんだ だってもう終わったことじゃないか」と佐野は歌った。僕は何食わぬ顔をしてそっと涙を拭い、隣の席の連れがそれに気づかずにいてくれることを祈った。

力強いビートに乗せて歌われた「マンハッタンブリッヂにたたずんで」も印象的だった。夜明け前にクレイジーな夢を見ていた君と僕、でも構わない、なぜなら「愛はここにある」から。この曲が原曲のナイーブなフォーク・ロック調よりも重厚なベースラインで演奏されたことで、都市生活がはらむ狂気のようなものと、その中を頼りない足取りで歩く恋人たちの幻想的な白昼夢がより一層くっきりと浮かび上がったのではないかと思う。「TONIGHT」と並んで評価するべき演奏だ。

そしてアンコールの最後に演奏されたのは、まだCDでリリースされていない新曲「Sail On」だった。オーソドックスなフォーマットの中に佐野のある種の性急さみたいなものが盛りこまれたスリリングな曲だ。デイジーの花を抱きしめながら「I love you」と繰り返すとき、その最もシンプルで使い古されたフレーズの中に、それでもまだ信じるべきものが残っているのだということが示唆される。いや、そこで示唆されているのは、僕たちが最後に繰り返すべき言葉は結局それだけなのだということかも知れない。ハニードリッパーズを思わせるゆったりとしたロッカバラードはこの日の最後にふさわしかった。

ライブが終わった後、僕の中の違和感のようなものは消え去っていた。いや、消え去ったと言うよりは、それはまだそこにあり続けたけれど、既にもうどうでもいいことになっていたと言った方が正確かも知れない。満足したかと問われれば「Yes」と僕は答えるだろう。初めて見たHBKの演奏はやはり上手かったし佐野のボーカルにも苦心と工夫の跡がうかがえた。以前のツアーのような苦しいファルセットは消えていて、それは僕を安心させ、喜ばせた。少しばかりボーカルが一本調子に聞こえた部分もあったが、「Angel」でのボーカルは感動的ですらあった。佐野の声が空中に消えて行く瞬間のかすかなビブラートは僕の心のどこかをも震わせて行った。

ライブの大半を僕たちは着席したまま聴いた。席から立ち上がったのは第1部も第2部も最後の1曲だけだった。ファンクラブ限定というフレンドリーな空気の中でのリラックスしたライブとして、今回のショウは肯定できるものだっただろう。いずれ行われるべき正式のツアーではまた違った雰囲気の中でもっとアグレッシブなライブになるのかもしれない。しかし、今回のライブは、ライブそのものとして満足すべきものであればあっただけ、それがだれに向けて鳴らされた音であったかということを考えない訳には行かない性質のものであったと思う。

なぜならこの日のライブのありようは、ひとつ間違えれば予定調和的なディナーショーに堕するリスクを秘めた危ういものだったからだ。もちろん今回、そこにはきちんとした緊張感、問題意識があった。多くの曲は歌が始まるまで分からないくらいアレンジが変えられていたし、その多くはその曲が持つこれまでとは別のニュアンスを掘り起こしたり、その曲の持ち味をより的確に伝えていたと思う。だが、そのテキストは結局アーティストとファンという一種の信頼関係、歴史や経緯を前提にしてこそ成り立つものだったし、新しい世代、新しいファンを強引に引きつける闇雲なスピードや力は残念ながら感じられなかった。この日、佐野とファンはある種の共依存関係にあったと言ってもいいかも知れない。

ファンクラブ限定ライブというイベントの趣旨からしてそれはむしろ当たり前のことだったのかも知れないが、僕にはそのファンクラブ限定というやり方そのものも含めて、この日のライブにとても閉鎖的なものを感じずにはいられなかったということなのだ。ZEPP東京へ降りて行く階段で「本日はファンクラブ限定ライブとなっておりますので…」という係員の声が聞こえてきたとき、僕は何かとても居心地の悪い気分になった。この次は正式なツアーで、開かれた佐野の、何の前提もなくただたたきつけるようなライブを見てみたいと思った。



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