洪水のあとの肥沃な土地に 新型コロナウィルス感染症が蔓延し、外に出るときにマスクが必要になってもう2年近くになる。当初はマスクが不足してドラッグストアに殺気立った列ができたり、政府から布のマスクが配られたりしたが、最近ではさすがに潤沢に不織布のマスクが箱で安価に売られていて、我々の社会の適応能力はすごいなと感心しているのだが、この騒動のずっと前から風邪でもないのにマスクをして会社に来る人たちがいた。 彼らは概ねメンタルに問題を抱えたり職場で居心地の悪い思いをしていたりして、自分を外部からしっかり守りたい人たちだった。顔の下半分をマスクで覆うことで、彼らは自分たちの自我をかくまっていたのだと思う。だれでも服を着て靴を履かなければ外出できないが、彼らにとってのマスクは衣服の一部であり、人の目にさらされる自分の表面を少しでも少なくすることで外敵の攻撃をしのいでいたのだ。 今、感染症のせいで彼らだけではなくだれもが四六時中マスク生活を余儀なくされ、飲み会は自由に開けなくなり、週に何日かは在宅勤務になった。会議はズームやら何やらのオンラインになり、やりとりは電話よりもメールが中心になった。ライブやスタジアムは一席空けて座り、外食も個食黙食が普通になったし、スーパーでは間を空けて列を作るように求められている。大きな声を出すことがはばかられるようにもなった。 昨年秋以降、感染が下火になったことで、こうした人と人との距離を今までよりも遠めに保とうとする試みも少し穏やかになったが、そうなって僕たちは気づいたのではなかったか、「あれはあれでそんなに悪くない部分もあったな」と。 もちろん人と人との距離を意図的に遠ざけることで失われるものはある。経済的な効率も下がり、その分社会生活のコストは上がるかもしれない。しかし、これまで神経をすり減らしていた窮屈すぎる空間や濃密すぎる人間関係が緩和されることで、風通しがよくなり、自分自身を大事にするための時間や気持ちの余裕が生まれたと感じた人は決して少なくなかったはずだ。 感染症対策のために何かを我慢する生活は早く終わって欲しい。しかし、その時、何もかもを「元に戻す」必要はないし、もともとゆっくり進んで行くはずだった社会や生活様式の変化が、好むと好まざるとにかかわらず一気に進んだ面は間違いなくある。それはプロセスとしては強引で暴力的なものであったが、その果実の中にはよきものも少なからずあるはずだ。それはまるで洪水のあとに肥沃な土地が残されるように。 端的にいえば「個への回帰とそれを前提としたコミュニケーションのチャネルの再構築」というのが感染症対策を通じて僕たちが経験したことだが、それ自体は進む方向としては決して間違っていない。このあと僕たちは、それらが感染症の収束とともになかったことになってしまわないよう、それを僕たちの生活の中にしっかりと位置づけて行かなければならないと思う。 2022年はそういう意味でちょっと面白い年になるかもしれない。 2022年1月 1997-2022 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |