logo ライナーノーツ ―― A Bridge to VISITORS


僕のことを話そう

1984年5月、僕は大学一年生だった。初めて親元を離れ、キッチンもトイレも、もちろんシャワーもない狭い下宿で暮らし始めたばかりだった。僕は一人だった。それは僕が求めたことだったし、気楽な一人暮らしは楽しくはあったけれど、自分がどこにも繋がっていないという頼りない気持ちは僕が考えていたよりずっと重たく僕にのしかかってきた。

僕は一人で目覚め、一人で眠った。寝過ごして必修の語学の授業に出損ねると、クラスの友達と会って話す機会すらなく、だれとも口をきかないまま一日が過ぎていった。当たり前のように濃密な人間関係が用意されていた高校の頃とは何から何まで異なっていた。僕は僕を巡る人間関係を自分の手で組み立てるしかなかったのに、その「手がかり」がどこにあるのか僕にはさっぱり分からなかった。親しげに声をかけてくるのは政党の下部組織や怪しげな宗教団体ばかりだった。僕は何をしているんだろう。僕はどうなってしまうんだろう。夜中に目覚めるとそんな不安で動悸が亢進して眠れなくなった。

僕がアルバム「VISITORS」を手にしたのはそんな頃だった。僕はそれをカセットテープに録音し、何度も何度も繰り返し聴いた。ヘッドホンステレオに入れて近所のスーパーで野菜を買うときにも聴いていた。大股で街を歩きニューヨーカーを気取った。もちろん歌詞は全部暗記してしまった。時折下宿に遊びにやってくる高校時代の友達と朝までアルバムに合わせて歌い、議論し、下らない冗談を言っては明け方に眠った。僕は見失いかけていた僕のアイデンティティを必死にそこに探していた。僕が何者であるかを測るための「基準点」をそこに求めていた。僕が知らない間に波に運ばれてしまわないよう港に固定してくれるアンカーとして「VISITORS」にすがりついていた。佐野元春の言葉のひとつひとつが僕にしみこんで新しい意味を持った。

それが渡米前の佐野の音楽と異なっているなんていうことは僕にはどうでもよかった。そんなことを考えている余裕は僕にはなかった。そこに佐野の最も新しい作品があるという事実だけが何よりも強く僕を鼓舞していたからだ。それは僕が初めて発売日に買った佐野のアルバムだった。初めて僕の今と佐野の今が同期していた。

僕は「COMPLICATION SHAKEDOWN」を聴き「TONIGHT」を歌った。「COME SHINING」に合わせてラップし、「NEW AGE」で踊った。それは僕にとってとても切実な行為だった。ヒップホップもファンクもどうでもよかった。僕にとって佐野元春の原体験は紛れもなく「VISITORS」だ。もちろんそれまでも僕は佐野のファンだった。高校生だった頃、「SOMEDAY」や「NO DAMAGE」はテープが伸びてしまうくらい聴いた。だけど「VISITORS」だけは少し意味合いが違う。少しばかり大げさにいうなら、僕はこのアルバムに救われたのだ。

一瞬のイメージ

ではこのアルバムの何がそれほどまでに僕を打ったのだろうか。もちろん僕自身の切羽詰まった精神状態のせいもあっただろう。しかし、そのように追いつめられ、弱り、ナーバスになっていた僕の心に訴えかける何かが、そこには確かにあったはずだ。

もちろんヒップホップの影響やアブストラクトな歌詞、機関銃のようなボーカルをこのアルバムの特徴としてあげるのはたやすいことだ。当時ニューヨークのアンダーグラウンドで炸裂しつつあったラップ・ミュージックに強くインスパイアされながら、ビートニクやボブ・ディランにまで遡る言葉とビートの先鋭的な関係をコンテンポラリーな文脈の中に求めたこの作品は、音楽的に佐野の作品系の中でも特異な位置にある、ワン・アンド・オンリーのアルバムである。

敢えて言えばそれはもはやラップ、ヒップホップですらない。それは佐野元春がニューヨークという街のスピードや熱、ノイズに浮かされるようにしながら、オーバーフロー気味なインプットを何とかコントロールして統合し、アウトプットした、他に類のないポップ・ミュージックであり、佐野の内部でいくつもの異質なモメントがせめぎ合った結果生まれた、その意味でまさにロックとしか呼びようのない音楽であったのだと思う。もちろんその過程で、当時ニューヨークで巨大なうねりとなっていたヒップホップやクラブ・ムーヴメントが大きな意味を持ったことは疑いがないが、佐野は決して単純なラップの模倣やディスコ向けのダンス・ミュージックをやろうとしていた訳ではなかったのだ。

そしてそこには従来のストーリーテラーとしての佐野元春を超えた言葉の先鋭化があった。それまで佐野は、情緒を排したシーンを丹念に積み重ねることで僕たちのひとつのストーリーを語っていた。そこにはひとつの架空の街があり、架空の僕がいて架空の君がいた。そのどこでもない街で僕たちは歌い、踊り、恋に落ち、そしてまた失意に打ちひしがれた。叫び、求め、ある時は歓びにうち震え、またある時は悲しみに涙した。しかしこのアルバムでの佐野はもはやそのようなシーンをすら歌わなかった。そこにあるのは一瞬のイメージだけだ。

難解で文学的なフレーズの断片の集積。象徴的で抽象的なイメージ、しかしそれは佐野がニューヨークで感じた意識の加速度と確実に呼応していたはずだ。もはやシーンをすら探している余裕もなく、ただ脳裏に次々と浮かんでは消えて行く一瞬のイメージだけを切り取り、半ば自動筆記的に、順番も適当にそこら中にコラージュして行くことで、佐野はこの街で感じていた自らの苛立ちや焦りのスピードを伝えようとしたのだと思う。そしてそれは、加速した意識の核から直接にたたきつけられる言葉だけが持ち得る強さ、喚起力を間違いなく備えている。

しかし、このアルバムが何らかの意味で重要な、あるいは特別なアルバムであるとするなら、その最も大きなポイントは別にあると僕は思う。そのことを考えてみたい。

孤独な闘い

アルバム「SOMEDAY」そしてその後に行われた「Rock & Roll Night Tour」で、佐野は中学生から大学生に至るリスナーの間に熱狂的なファンを獲得した。大阪フェスティバルホールや中野サンプラザといった大ホールを満員にし、その後に発売されたコンピレーション・アルバム「NO DAMAGE」はついにチャート1位まで駆けのぼった。ちょっとした佐野ブームが起こりつつあったのだ。

この時期、佐野が「SOMEDAY」を踏襲したアルバムを発表しそれまでの音楽表現を円満に発展させて行くことはおそらくそれほど困難ではなかったはずだし、そうすればそれはまず間違いなくビッグ・セールスを記録することになっただろう。しかし、佐野はそうしなかった。佐野はそれまで手にしたほとんどすべてをあっさりと投げ出し、単身ニューヨークへ渡ったのだ。その結果製作されたのが他でもないこのアルバムだが、当時はいつどんな形で次のアルバムが発表されるかというアナウンスすらなく、僕たちは心細い思いで毎週のラジオを聴き続けるしかなかったのだ。

なぜ佐野はそんなことをしなければならなかったのか。当時のインタビューにこんなくだりがある。

佐野 僕は新しいコンセプトを探しに行くんだ、と思ってもらえばいいと思います。
僕がデビュー当時考えていたコンセプトはとても頭のいい人たちが、それを商業的にうまく取り入れて、商業的なレベルで消化していったと思います。
SJ そのコンセプトと商業的なレベルでの消化ということが、ちょっとわからない。
佐野 たとえば『つまらない大人になりたくない』というコンセプトをコマーシャライズした形で広めることは簡単です。頭が良くてお金をたくさん持っていて、力が強い人であるならば。
でも、コマーシャライズされて、受け手の所へ行った時、その『つまらない大人になりたくない』という本来もっていたパワーが薄れているはずです。形式化しているというか。
つまらない大人になってしまった人が『つまらない大人になりたくない』といった時にそれはインチキになってしまいます。
このことをよく知っているのは僕自身であり、僕のファンたちです。
だから、僕はそれにとって替わる新しいコンセプトを探しにいくのです」
(新譜ジャーナル 1983年7月号)

当時、佐野がマーケットに持ちこんだティーンエイジ・ミュージックのフォーマットやロックンロールの再発見というテーマ、内なる無垢やストリート・ライフといったアイデアは、音楽産業の手によっていとも簡単に剽窃され消費されていった。それはまるで野火が広がるのを見るようだった。そのようにして佐野の方法論は洗練され、効率化される一方で、その内実は薄められ、陳腐化していったのだ。街には相変わらずの情緒的な人生応援歌、慰めやもたれ合いに、何となくバタ臭い語彙や音楽的イディオムをまぶしただけの「バッタもの」、「なんちゃって佐野元春」が恐ろしい勢いであふれて行った。

そのことに強い危機感を抱いたのは他ならぬ佐野自身であっただろう。佐野は自分がその身を削るようにして生み出した表現が、あっという間にかすめ取られるのをおそらくは呆然と見守っていたに違いない。そして、その表現の核、最も伝えたいことを守るためには、そのスタイルを更新し続けるしかないと悟ったのだ。だからこそ佐野はすべてを捨てて太平洋を渡るしかなかった。

佐野は一人ニューヨークで、自らの表現を再びその手に取り戻すべく闘い続けた。すべてをリセットし、「昔のピンナップはみんな壁からはがして捨ててしまった」。このアルバムにみなぎっている緊張感、切迫感はそのような佐野のギリギリの闘いがあればこそ生まれてきたものに他ならない。ここでは佐野はおそろしく孤独だ。だれもがナンバーワン・アーティストとしての佐野元春を見ているとき、佐野自身はだれにも理解されないサバイバルのための闘いを続けていたのだから。このまま同じ表現を拡大再生産するだけでは自分の音楽すら簡単に消費されてしまう、そうした危機感を抱きながら、佐野は「新しいコンセプト」を探し続けたのだ。

「VISITORS」への架け橋

このとき、佐野が自らに課したその孤独な闘いを闘わなければ、そしてこの「VISITORS」というアルバムを発表していなければ、おそらく現在の佐野はなかった。このアルバムが重要であり特別である理由はそこにある。いや、そこにしかない。それは佐野が自らを宿命的に追いかけてくる消費のゲームに対して明快な闘争の意思を示したアルバムとして重要であり、そのゲームに対してだれもが想像した以上の完成度の作品で痛烈な一撃を加えたという意味で特別なのだ。

もちろん、コマーシャル・アーティストである以上、佐野がそのゲームから完全に自由になることはできない。「宿命的」というのはそういうことだ。しかし、佐野がこのとき示した、居心地のいいポップ・ミュージックの予定調和的な世界にはとどまらないという意思こそ、そのゲームの中を生き残るために決定的に必要なことであり、唯一の有効な武器であった。本当の意味でのアーティスト佐野元春の軌跡は、このアルバムから始まるのだと言ってもまったく過言ではない。

都市生活の中で自分の場所を見出せずにいた僕を打ったのは、佐野がこのアルバムに詰めこんだそのような孤独と痛みのブルースに他ならなかった。孤独を引き受け、一人ででも闘い続けるという闘争の意思が僕をギリギリのところで鼓舞し、踏みとどまらせてくれた。それは僕が最も必要としていたものだった。このアルバムは僕にとっても重要で特別なアルバムだった。20年を経た今、僕はそれがよりはっきりと分かるようになった。このアルバムは今でも僕の「基準点」なのだ。なぜなら今の僕のスタート地点は、一人の下宿で自分という存在の重さに呻吟していた18歳のあの夜だから。

このアルバムは佐野の闘争の記録であるとともに、これを聴くすべての人それぞれについての「物語」でもある。だから僕は僕の「物語」を物語った。そして僕はこのアルバムを聴く人にそれぞれの「物語」を聴きたいと思った。何人かの友達がそれに協力してくれた。そうやって僕は「VISITORS」に橋を架けたいと思ったのだ。



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