logo この毎日の人生


誕生日が来れば39歳になる。毎朝6時45分に起き、電車に揺られて都心の職場へ向かう。この4月で勤続15年になって、さすがに「若手」とは呼ばれなくなり、中間管理職として何人かの部下を預かるようにもなった。家では毎晩ビールを一缶飲み、CDを聴きながらパソコンを眺めて12時には寝る。休みの日には近所のスーパーに買い物に出かけたり、大きな音で音楽を聴いたり。2週間に一回はスタジアムへサッカーの試合を見に行く。趣味は音楽鑑賞とサイトの更新、特技は水泳とドイツ語。それが僕。ただのありふれた男。

満足しているかと訊かれれば、まあ、たぶん、と答えるしかない。取り敢えずは悪くない生活がここにあり、聴きたいCDをそれほどの躊躇もなく買えるだけのカネもある。これといった持病もなく、夜はぐっすり眠れる。家族はそれぞれに忙しくしている。問題と言えるような問題は今のところ見当たらない。海外生活も経験してヨーロッパはそこらじゅうを旅行した。絵に描いたような、とは言わないまでも、十分に満足だ、幸せだ、というべき僕の人生がそこにある。

それでも僕は思う。僕がこれまでに失い、譲ったもののことを。おそらく人生の半分ほどが過ぎて、もっともらしい生活、説明可能な幸せとひきかえに失われた取り返しのつかない時間への悔恨に僕は言葉を失う。それはつまり、自分自身が確実に老い、毎秒死に近づいているということの自覚に他ならない。僕はこれまでに何かをしてきたのだろうか。そして、僕にはこれから何かができるのだろうか。もしかしたら僕は取り返しのつかない時間を、ただ何となく無駄遣いしてきただけではなかったのか。そして、僕には何かをなしとげるような時間はもう残っていないのではないか。

「THE SUN」、佐野元春の新しいアルバムはそう名づけられた。ここで佐野は、繰り返し「ありふれた一日」のことを歌う。そして、そんなありふれた一日の中にこそ抱きしめるべきものがあるのだと言う。「ありふれた日々 ありふれたブルー 陽は昇り 陽は沈み 何も変わらないものを そっと抱きしめて」。『希望』と題されたこの曲で、佐野はこうも歌う。「晴れた日は 風を抱いて 夢の続きから始めてみてもいい」。

あるいは『恵みの雨』。「何気ない 明日への不安に 望みの雨が降りそそいできたよ 答えはまだなくていい 錆びてる心に火をつけて 我が道を行け」。僕には佐野がこう言っているように思える。大丈夫、人生の半分が通り過ぎたってどうってことはない、まだまだ道の途中なんだから、君の思うように、やりたいようにやればいいよ、と。

この優しさは何だろう。この肯定性は何だろう。かつて佐野は「つまらない大人にはなりたくない」と歌った。「本当の真実がつかめるまで続けるんだ」と歌った。それは闘いであり、冒険であり、決して満足しないことの宣言であった。そして僕たちは、ロックンロールというのはクソのような日常をビートするものだと思っていた。理屈では説明できない熱のかたまりみたいなエネルギーをたたきつけるための音楽だと思っていた。だから佐野が「本当の真実はもうないのさ」と歌ったとき、「答えはいつも形を変えてそこにある」と歌ったとき、僕たちは戸惑い、佐野がどこへ行こうとしているのか、ロックンロールが一人の人間の成熟にどう立ち会って行くのかということを、身を切るような痛みをもって自分自身に問うてきたのだった。

そして僕たちは気づいたのだ。僕たちは老いつつあり、死につつあり、そして人生の半分はおそらくもう通り過ぎたのだと。

しかし、佐野のこの優しさ、肯定性は、そのような取り返しのつかない時間への悔恨を、ただ無根拠に慰めるだけのものでは決してない。そうではなく、佐野は、我々自身の「生」とは他でもない今ここにある毎日のことなのだと看破したのだ。そうした毎日の積み重ねの結果今ここにいる自分自身こそ紛れなく唯一の、そして最新型の、最先端の自分であり、逆に言えばここに至るそうした日々の苦闘がなければ今ここでこうして考えている自分はいなかったのだと。その認識こそが、「この毎日の人生」に対する限りのない肯定の裏づけに他ならないのだ。

自分の生がひどく暫定的なものに思えた時期もあった。大学を卒業し就職した頃からずっと、サラリーマンとしての生活とは別に、どこかに僕の本当の人生があるような気がしていた。そしていつかはそこにたどり着くのだとあてもなく考えていた。結婚して、子供が産まれてもその感覚は去らなかったし、夜中に目が覚めてオレはこんなところで何をやっているんだとパニックに襲われたこともあった。しかしこのアルバムで佐野はそうではないと歌っている。取り返しのつかない時間への限りない悔恨を胸の奥に沈みこませながら、その悔恨をも今の自分を構成するものとして佐野は受け入れようとするのだ。その上で「今ここにある自分」を肯定しようとするタフな意志こそ、このアルバムの本質だと言っていい。

「この愛すべき人生 この毎日の人生」。すべては続いて行く。音楽は流れて行く。佐野元春が佐野元春であることを、もう何百回目か、僕は静かにかみしめるのだ。



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