僕は矛盾を肯定する。
矛盾を否定すると、自己の発したことば(あるいは表現)によって自身が束縛されるだろう。そしてその束縛がまた新たな矛盾を生み出し、それを否定するとまたさらに・・・という具合に、恐らく時間の経過に比例して自動的に自己の存在や価値は限定されて収縮してゆく。解決策は、思考する意識をなくすか、矛盾を受け入れるかのどちらかだ。僕はまだ死にたくないので、矛盾を受け入れる。
(mood.fragments 1999年5月)
ここ数年間、僕は憂鬱だった。
限りあるこの星は傷んでいる。
増え過ぎた人類がこの星に与える影響はもはや無視できない。そんなことを考えていると、この世界に生を受けて、愛する人と一緒に暮らしたり、何か好きなものをつくったり、おいしいものを食べたり、といったような今まで信じていた価値が崩壊して、何も信じられなくなり、未来には絶望しかないように思えて、最後は生きていることに意味がないように感じるようになっていた。
それでも好きなことは止められないし、自殺する気なんてさらさらない。
僕はもっと人生を楽しみたい。この矛盾をどうにか解決しようと考え、3つの答えを思いついた。
ひとつは、「テクノロジー」
人類の叡智を信じて、より新しい(夢のような)技術の開発による解決。
哲学が物理学と切り離せなくなったように、すべてはテクノロジー抜きでは考えられない。
例えば、環境にまったく影響がないクリーンで安全なエネルギーや、廃棄物を完全に処理する方法、あるいは地球上のすべての生物の生活を保証するに足る食料の開発。もうひとつは、「新たな価値」
人々の欲望がエンジンとなって走っている「資本主義」に代わる新たなイデオロギーの発明による、欲望とそれを埋める物質、という現在の「価値」の構造の根本的な変革。人類は自由にさせておくにはあまりに愚かだ。
例えば欲望の代わりに「美」を自由の代わりに「愛」を代入してみる。3つ目は、「矛盾を受け入れること」
上の2つの解決案は、現在のところまだ登場していないし、そんなものが本当にあるのかどうかもわからない。だからと言って、知ってしまったことを知らなかったフリをしてやり過ごすなんてことができるほど、僕は器用じゃない。
そこで、この大きな矛盾をそのまま受け入れてみた。諦めるのと受け入れるのとは違う。僕は決して諦めてはいない。いつかすべてが解決されて“うまく行く”日のために、生きるのだ。たとえそれが僕が死んだ後でも。
そうすると、あらゆる矛盾を肯定することができた。そして、冒頭の文章を書いた。
ずっと僕らはその愚かさに気づいていた
アルバム「Stones and Eggs」にちりばめられた数々のことばやメロディ。
それらは、そんな僕にとってとてもリアルに響いた。今、歩いてゆくための大地 胸、いっぱいに野に咲くフラワー
そして、僕は無駄じゃない、僕は生きていてもいいんだ、と信じられた。
佐野元春という人が、ずっと僕を見ていて、僕のために歌ってくれているかのように。朝起きて夜まで狂おしく回る世界を見て
恐らくは、勘違いも甚だしいのだろうが、勘違いでもなんでもいいじゃないか、僕がそう感じて、癒されたなら、限りある環境を破壊して生み出された1枚のCDは他のどのCDよりも僕にとってその価値があったのだ。
丘の向こうから風に祈るように 日射しがすべてを隠してゆく
この、あらかじめ矛盾を孕んだ世界を自覚しながらも、なお強く生きて行くこと
それが僕の目に映ったメッセージなんだ。How you gonna read this message in your eyes ?
WHY DON'T YOU VISIT mood ?