logo live on 2006.2.5 at 大宮ソニックシティ


イノセンスの円環、それは佐野元春がアルバム「The Circle」で提示したテーマだった。「ぼくは大人になった」とまるで自らに言い聞かせるように殊更に宣言したアルバム「TIME OUT!」、ボヘミアン気質を葬って「まるで夢を見てたような気持ち」だと歌ったアルバム「sweet16」、そして「探していた自由はもうない」と言い切ったアルバム「The Circle」。90年代の佐野はまるで何かに憑かれたように、自分がそれまで大事にしてきたものに別れを告げようとしているように見えた。

例えば「つまらない大人にはなりたくない」というスローガン、例えばパリのカフェに集うボヘミアンというコンセプト、例えば「自由じゃなけりゃ意味がない」というテーゼ。それらはある時期確かに佐野の表現の根幹をなす重要な概念だった。だが、それらは同時に所詮ただのスローガン、ただのコンセプト、ただのテーゼに過ぎなかったはずだ。にもかかわらずそれらはいつの間にか自己目的化し、自動化して佐野の表現を逆に縛り始めていたのだ。

佐野はそのような足かせを懸命に振りほどこうとしていた。自分の表現を生き生きとしたコンテンポラリーなものとしてロールオーバーして行くためには、そのようなスローガンのドグマ化は忌避すべきものだったからだ。そんな中で佐野がたどり着いたのが「イノセンスの円環」というテーマだった。

イノセンスは失われたり消え去ってしまったりするのではない。それはひととき見失われたように思われても、いつかきっと生の重要な局面で円環を描いて再び立ち現れる。重要なのはスローガンではなく、そのようなイノセンスの本質を間違いなく見極める自らの眼差しに他ならない。それが、佐野元春がアルバム「The Circle」で歌ったことの核心であったのだと僕は考えている。

今回のツアーでは80年代の曲が中心に演奏されている。そして最新アルバム「THE SUN」からの曲も。しかし、90年代の作品からの選曲は極端に少ない。もちろんプロモーション上の問題もあるのだろう。しかし、それでは、佐野が90年代に手にしたこの認識はもはや放棄されたのだろうか。

もちろんそうではない。例えば重々しいビートでダンサブルにリアレンジされた「ぼくは大人になった」。希望についての歌だと紹介された「レインボー・イン・マイ・ソウル」。90年代のカギになる曲はこのツアーでもきちんと演奏されている。そして、「The Circle」。佐野はこの曲のエッセンスを今回のライブにそっと忍ばせた。そう、「観覧車の夜」という曲の形を借りて。

この曲のイントロで歌われるコーラス、「like the way I used to be」はもともと「The Circle」からのフレーズだ。探していた自由はもうない、本当の真実ももうないと歌った「The Circle」で、しかし佐野は最後に「君を愛して行く 今までのように」とリフレインする。そしてそれかぶせるようにこの英語のフレーズがコーラスされるのだ。「以前と同じやり方で」と。

「観覧車の夜」もまた円環をテーマにした曲だ。「rouding, rounding」と佐野は歌う。夜空に浮かび上がる観覧車のように、すべては回り続け、巡り続ける。それはかつて佐野がイノセンスが円環を描いていつか僕たちのもとに再び姿を現すのだと歌ったのと呼応している。「The Circle」のコーラスを「観覧車の夜」に借用することで、佐野はそのスピリットが健在であること、その系譜が確実に受け継がれていることを僕たちに示したのだ。少しばかり暗号めいたやり方ではあるけれど。

受け継がれるべきものと更新されるべきもの、というのがアルバム「The Circle」で問われたことだった。いや、それはニューヨークでアルバム「VISITORS」を製作したときから、佐野がずっと自らに問い続けてきたことだった。それは今、このツアーでも確かに問われているのだし、この日のライブは、それに対して佐野が出そうとしている答えの一端を垣間見せたものなのだと僕は思う。


受け継がれるべきものと更新されるべきもの、それが今回のツアーで最もはっきり表れているのは「Rock & Roll Night」ではないかと思う。

いうまでもなくこの曲は長大なロック・オペラであり、荘重なオーケストレーションと佐野のシャウトが特徴のドラマティックな作品だ。それは都市生活の中でただひとつかみのイノセンスを探すために夜の更けた人気のない街路をさまよう人たちのためのバラッドである。そこで探されるのは、都市生活を彩るさまざまなノイズの中にかすかに聞こえる、懐かしいのにまだ一度も聴いたことのない澄んだ音色のメロディだ。

この曲で佐野は繰り返し「たどり着きたい」と歌う。このとき佐野がたどり着きたいと思っていた場所に、果たして佐野は、あるいは僕たちはたどり着いたのだろうか。

答えはもちろん「No」である。僕たちの生は不完全で有限だ。佐野がここで希求しているものは「真実」であり「イノセンス」に他ならないが、不完全で有限な存在である僕たちがそのような完全性や永遠性を手にできると考えるのは矛盾している。もし僕たちが初めから完全な存在なら、どうして「真実」や「イノセンス」を追い求めることがあるだろう。僕たちは不完全で有限な存在であるからこそ、完全性や永遠性に憧れるのだ。

この曲は僕たちのそのようなアンビバレントな憧れについて歌っている。僕たちの手に入るはずもない「真実」や「イノセンス」の、せめてその尻尾、残像だけでも捕まえたいと願う僕たちの切実な思いについて歌っている。そしてこの曲の本質を、そのような普遍性に対する僕たちの絶えざる憧れ、希求だと考えるなら、今回のツアーで佐野元春がこの曲を大胆にリアレンジした理由も自ずから見えてくるのではないだろうか。

佐野は観客を座らせた後、静かにアコースティック・ギターでくぐもったストロークを刻み始める。僕たちは最初それが何の曲か分からない。やがて歌い出される聞き覚えのあるメロディと歌詞。それは確かに「Rock & Roll Night」だ。だがそれは僕たちがよく知っている「Rock & Roll Night」ではない。佐野はあくまで感情を抑制したまま淡々と歌う。バンドのバック・アップもそのボーカルに寄り添うように抑えられている。佐野のシャウトもなければ間奏での大がかりな盛り上がりもない。

だが、ここにおいて「今夜こそたどり着きたい」と歌う佐野の、そして僕たちの希求のありかが一層鮮やかに浮かび上がったと感じるのは僕だけではないだろう。最初の約束から20年以上、その間僕たちが夢見続け、探し続けた「真実」、「イノセンス」。それぞれの時間を経て、僕たちは今、自分たちがまだそれを探し続けていることを確認するのだ。

それは確かに僕たちが20年前に無邪気に求めたのと同じものだ。しかしそれを求めている僕たちはかつてのようなティーンエイジャーではない。いくつかの苦い思いを胸の奥に沈潜させ、いくつかのままならない現実を目を閉じてやり過ごしながら、ささやかな日常の泡の中でその手に残ったもののカタログを点検する40歳過ぎの父親だ。

今、僕たちが「真実」や「イノセンス」の夢を見るとき、そこにはもう感情に任せたシャウトは必要ない。静かなアコースティック・ギターに乗せて佐野が「Rock & Roll Night」を歌い出した瞬間、僕たちはだれよりも切実にそこに「真実」の残像を見る。自分が何を確かめに今夜この場所に足を運んだのかを知る。なぜなら僕たちは自分をここまで運んできたものこそ、今佐野が目の前で歌っている「真実」や「イノセンス」への憧れに他ならないと知っているからだ。

佐野が「たどり着きたい」と歌うように、僕もそのような憧れ、渇望を抱き続けている。それが決して僕たちの手に入るものではないと知りながら、それでもその後ろ姿を自身の中に焼きつけたいと願っている。受け継がれるべきものと更新されるべきもの。今回のツアーでセットリストの大半が80年代の曲であるにもかかわらず、そこに先へ進もうという意志が感じられるとしたら、それは佐野が、変わらずにあるべきものの本質を、僕たちになるだけ直接伝えようとしているからなのではないかと思うのだ。

それだけに大宮でのライブでこの曲の最も重要な歌詞を間違ったのは痛かった。しかし、だからといって今回のツアーでこの曲が演奏される意味、新しいライブ・アレンジの重要さが損なわれる訳ではない。この曲で歌われる希求は、より切実に僕の中で呼吸し続けているのだから。



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