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アルバム「SOMEDAY」がイノセンスを自らの内に保ちながら大人になることの困難さに直面した最初のアルバムだとするなら、このアルバムはもう少し楽観的に10代のきらめきや過剰さを表現したものだということができるだろう。プロデュースは佐野元春の名義になっているが、実質的には伊藤銀次との共同プロデュースと考えるべき作品である(一部の曲のアレンジは大村雅朗)。

このアルバムには現在でも佐野の重要なレパートリーとしてライブでも繰り返し演奏される「悲しきRADIO」や「君をさがしている」の他、「ガラスのジェネレーション」や「NIGHT LIFE」といったシングル曲、ファンの間で根強い人気のある「バルセロナの夜」、古くからのレパートリーでテレビでも披露されたことのある「彼女」、そしてタイトル曲であり佐野の代表曲のひとつである「Heart Beat」など、佐野ファンとして知らない訳には行かないナンバーが詰めこまれている。

その中でも言及されなければならないのは冒頭に置かれた「ガラスのジェネレーション」だろう。革命の大看板を掲げながら最終的には独善的な党派闘争に帰着するしかなかった全共闘世代への訣別を「さよならレヴォリューション」のワンフレーズで端的に言い切ったこの曲で、佐野は「街に出ようぜ」と歌った。そして「つまらない大人にはなりたくない」というフレーズでは、だれもが10代の一時期手にする特権的で透明なヴィジョンの核心を言い当てた。

このアルバムで佐野が提示したライフ・スタイルは決して僕たちの生活に基盤を持つものではなかった。いった僕たちの冴えない日常のどこに「パーティ・ライト」や「シャンペングラス」があっただろうか。どこに朝の4時半に海辺にとめたクルマの中で彼女の寝顔を見ながら涙をそっと拭うようなロマンスがあっただろうか。もちろんそれは僕が田舎の高校生だったからでもあっただろう。しかし、佐野の曲を熱心に聴いていたティーンエイジャーの中で、実際に佐野の歌のような情景に具体的な実感のあった者はそれほど多くなかったはずだと僕は思う。むしろ、そうであったからこそ佐野の曲は多くのティーンエイジャーに支持されたのだと。

優れた映画や小説のことを考えてみればいい。それらがリアルであるかどうかは決してそこに描かれた情景が僕たちの日常と具体的に似ているかどうかということではない。具体的に僕たちの日常にそっくりな情景だけがリアルということの意味なら、何も映画を見たり小説を読んだりしなくても、いくらでも僕たちの周囲に「リアル」は転がっている。それにもかかわらず僕たちが映画や小説や音楽を求め、そこにあるものに自分の感情の中心をビートされるのだとしたら、フィクショナルに凝縮され、誇張された時間や風景の中に、それが僕たちの見慣れた日常とかけ離れたものだからこそ表現することのできるある種の「真実」があるからに他ならない。

このアルバムにもそんな種類の「真実」がある。このアルバムに描かれる、因襲的な共同体を離れ、高度成長期以来出現した「都市」の希薄でプラグマティックな人間関係の中に、自らの居場所をむしろ積極的に見出して行こうとする態度――それは後の「Cafe Bohemia」というコンセプトにも通じるものでもあるのだが――、クールで享楽的で、しかし一方ではニセモノやインチキを潔癖なまでに拒絶するシティ・チャイルドのライフ・スタイル、そうしたものが僕たちの心を捉えたのは、そこに「すべてが終わった後にやってきた」僕たちの世代の頼りなさに呼応する強さの可能性が示されていたからなのではないだろうか。

もちろん、そのような態度、そのようなライフ・スタイルはその後幾度も現実の中で挫折し、試されて行くことになる。「つまらない大人にはなりたくない」と言い放った若さのツケを僕たちはその後ずっと払い続けることになる。海辺にとめたクルマの中で明け方に夢を見ていた小さなカサノバと街のナイチンゲールも、いつか大人になって行かなければならないのだ。現在まで続く佐野の、そして僕たちの、真実を求める長い魂の遍歴は、このアルバムから始まったのだと言ってもいいだろう。



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