logo ナポレオンフィッシュと泳ぐ日


このアルバムが発表されたとき、僕はちょうど会社に就職したばかりだった。会社の独身寮に住み、今考えればあきれるほど単純な仕事の段取りが分からなくて毎日悪戦苦闘していた。僕はこのようにして少しずつ年をとって行くのだ、毎日朝から晩までレコードばかり聴いていたあの大学時代の時間はもう戻ってこないのだと思っていた。

朝起きると、先行発売されていた「約束の橋」を聴きながらスーツに着替え、朝食もそこそこに寮を飛び出した。このアルバムは研修の帰りに通りかかったレコード屋で買ったはずだと思う。僕にとって、生活そのものが大きく変わり、それにつれて自分の考え方や音楽とのつきあい方も変わり始めていた時期に手にした佐野のアルバムだった。

この時期、佐野もまた変わろうとしていた。前作でハートランドとのコラボレーションにひとつの達成を見た佐野は、1987年後半にハートランドとともに東京でレコーディング・セッションを行っているが、その音源を作品としてリリースしなかった。そしてその年の末から佐野は、新しいアルバムを携えないまま異例のツアーに出る。

本作がレコーディングされたのはそのツアー終了後、88年の後半になってからだ。佐野はロンドンに渡り、エルビス・コステロやニック・ロウのプロデュースを手がけたコリン・フェアリーを迎えて本作のレコーディングを始める。ブリンズリー・シュワルツ、ピート・トーマス、ボブ・アンドリュースといったパブ・ロックの名手をバックに従え、ロック表現の前衛に挑んだ意欲作である。

「ブッダ」「ディズニー・ピープル」「水の中のグラジオラス」「風の中の友達」「オレは最低」「雪」といった、封印された東京セッションからと思われる音源を聴くと、そのセッションの水準が決して低いものではなかったことが分かる。しかし佐野は、そうした曲でフレンドリーなポップ・アルバムを作るより、もう一つ先へ視線を伸ばした、「超えて行く」アルバムを作りたかったのではないかと僕は思う。

本作の特徴の一つは、散文詩「エーテルのための序章」の発表を経て結実した歌詞の高い文学性、象徴性である。アルバム・タイトルを初め、ほとんどの曲名は日本語で付けられており、日本語のロックでは常套手段であるサビでの場つなぎ的な英語のフレーズもほとんど登場しない。しかしここで象徴的な日本語のフレーズの集積が喚起して行くイメージの力は圧倒的だ。このアルバムでの佐野の歌詞は、安直な英語の「何となくカッコいい雰囲気」に頼ってきたそれまでの日本語のロックに対する痛烈な批判となり得ている。

音楽的にもピート・トーマスのドラムで始まる明快な8ビートのタイトル曲から、セカンド・ラインの「ボリビア」、ポエトリー・リーディングの「ブルーの見解」や「ふたりの理由」まで、どの曲も佐野が明確な意志と確信の下で鳴らしていることが分かる。ひとつひとつの音があるべき場所に寸分の狂いもなく収まって行く感覚。決して音数が多い訳ではなく、使っている楽器もオーソドックスだが、佐野のインスピレーションとそれを整理するコリン・フェアリーの絶妙なコンビネーションが生み出した、シンプルでありながら広がりと奥行きを兼ね備えた音像は、今回のリマスターで一層くっきりと際立っていると言っていいだろう。

もっとも、僕にとってこのアルバムは発表当時必ずしもしっくりきた訳ではなかった。むしろこのアルバムのどこにとっかかりを見つければいいのか、僕自身の苦難に満ちた新人サラリーマン生活とこのアルバムがどうリンクするのか、それが僕には上手く分からなかった。それはこのアルバムがそれまでの親密で分かりやすいポップ・ソングと幾分様相を異にしていたからでもあったろう。しかし、その本当の理由はおそらく僕の側、音楽と寄り添う僕の意識が環境の変容に打ちのめされていたということなのではないかと今では思う。

しかしそれから15年以上経って、結局僕が何食わぬ顔でサラリーマン生活を続けているように、このアルバムもまたその間ずっと僕の傍らにあった。そして、毎日浴びるほど音楽を聴いていた大学生の時に聴いた音楽よりも、その後のサラリーマンとしての厳しい毎日のやりくりの中で真夜中に聴いたアルバムの方が、時として僕の中に深く跡を残すこともあるのだということを僕は学んだような気がするのだ。

それは佐野も同じではないかと僕は思う。渡米までの初期のアルバムは文句なく佐野元春の幸福なロックンロールの記憶である。しかし、ティーンエイジ・イコンとして半ばブーム的にもてはやされた時期を過ぎ、その頃に交わした約束とともに成長して行く時期の困難な道のりの呻吟の内にこそ、作品として、いや、アーティストとして本当に評価されるべきものがあるのではないか。そうだとすれば、この作品はそのような困難な世界で誠実にロックンロールを鳴らし続けようとする佐野元春の、「外海」への新しい航海の始まりを告げるアルバムであったのかもしれない。



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