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ロックンロールはだれのものか。

ロックンロールというのはガキのためのものだと僕は思っている。30歳以上の大人を信じるな、とか、ジジイになる前に死んでやる、とか、そういう無茶な言い切りこそがロックなのだと思うし、そんな言い方で世界中のすべてを冷笑し、そこらじゅうにツバを吐きかけることができるのがガキの特権なのだ。その意味でロックンロールはすぐれて階級的な音楽であり、決して万人に開かれたものではない。大人お断り。それがロックンロールだと僕は思っている。

だが、人は容赦なく年をとる。僕は今年40歳になった。ロックンロール? 会社の同僚は笑うだろう。近所の奥さんは怪訝な顔をするだろう。そう、僕は結局、中途半端な大人にしかなることができなかったのだ。ロックンロールに拒絶されながら、しかし厚顔無恥な大人になってしまうこともできなかった、甘ったれた40歳のオトナコドモだ。みっともないどっちつかずのロック難民、それが僕だ。

アーティストだって年をとる。彼は「30歳以上の大人を信じるな」と言い放ったことの落とし前をつけなければならない。いや、そんなこと忘れたような顔をするのがロックンロールってことなのか。ともかく、ロックンロールという垢抜けない、洗練の欠片もないようなやかましい音楽をやり続けることの理由や必然性を彼は問われる。いい年をして髪を伸ばし、サングラスをかけて街を歩くことのバカバカしさ、滑稽さを彼は引き受けなければならない。

「大人のロック」。懐かしのXX年代。もし、40歳になった僕にあてがわれるのがそんなステロタイプで牧歌的な代物だけなのだとしたらそんなものは要らない。あの頃はよかった、あの頃はこの曲をよく聴いた、そんなオヤジの繰り言みたいな懐メロ談義ならそんなものには小便でも引っかけてやれ。君の心の中にわだかまっているものがそんなクソで慰撫されるようなのんびりしたものなら、君にはどのみちもうロックなんて必要ないのだから。

僕たちは大人になることの困難さを知りながら、それでも大人になろうとあがいてきたはずだ。ガキのままでい続けるのではなく、このクソだらけの大人の世界に飛び込み、そこで生き延びることこそ、ロックンロールを卒業する唯一の方法だと思ったはずだ。だがロックンロールはどこまでも僕たちについてきた。大人になることの代償をきちんと払えなかった僕たちにとって、ロックンロールはいつもそこで鳴っていた。イヤな顔を隠すのが下手くそで、諦めたり投げ出したりすることが得意な僕たちは、ロックンロールを捨て去ってしまうことができなかった。

今、もし本当に大人のロックなんてものがあるのなら、それは40歳の僕のリアルな苛立ち、僕のきしみや歪みを直接ビートするものでなければならない。僕たちのイライラやモヤモヤを、曖昧な情緒や懐かしみ、甘い思い出の中に拡散させるのではなく、それを蹴飛ばし、たたきのめし、それらと切り結ぶものでなければならない。そうでなければそれはロックの名に値しない。

いったんはロックンロールに拒絶された者として、それでも本来はガキのためのものであるロックンロールを手放せない性格破綻者として、僕たちはその痛々しさを自ら背負わなければならないだろう。笑われ、指さされても構わない。僕の弱さが僕の一部なのだとしたら、ロックンロールもまた僕の一部なのだろうから。


では、40歳になった僕の苛立ちを直接キックするロックとはいったいどんなものなのだろう。それは十代の僕を激しく揺り動かしたあのロックンロールとは異なるものなのか、あるいは同じものなのか。

もちろん年を経るにしたがって僕を苛立たせるものは変わって行く。音楽のスタイルは移り変わるし言葉遣いだって時代の中で変わり続ける。十代のガキどもが抱えている漠然とした不安、持て余す性欲、理路整然としたものへの反発、ストレートでないものへの嘲り、そうしたものをビートするのがロックの本来の姿だとしたら、それは40歳のオヤジの苛立ち、不安や不満とは違ったものであったとしても不思議はない。

経験することによって分かってくることがある。それが僕と中学生や高校生たちとのいちばんの違いだ。僕はもう自分と世界とを単純に対立するものとは思っていない。自分だけが正しく、無垢で、一方的に世界から疎外されているとは思っていない。むしろ問題なのは自分すら、自分自身を疎外しているその世界の一部に他ならないということだ。一方で狡猾で偏狭で不寛容な大人の世界の一員でありながら、他方でそういう自分を激しく嫌悪しているという自分自身の中のダブルバインドだ。

そんなアンビバレントな苛立ち、自分自身への激しい拒絶をも内包した怒り、そうしたものをキックするロックンロールとはいったいどんなものか。それは僕たちが今立っている場所、僕たちがこれまでに失ったり譲り渡したり諦めたりしたものと、その代わりに僕たちが手に入れたもの(それも決して少なくはないはずだが)、その結果、今僕たちが手にしているもの、それらに対する冷徹な認識を踏まえたものでなければならない。僕たちがここにたどり着くまでに笑った声、流した涙、怒りに震わせた肩、果たした約束と破った約束、交わしたキス、セックス、言い訳や悔恨や謝罪のすべてを僕たちに突きつけるものでなければならない。

しかし、それ以上に大切なのは、それが単純であることだ。明快であることだ。そうした僕たちの歴史のすべてをその内に含みながら、そのすべての複雑な感情を、泣いていいのか笑っていいのかさえ分からないような微妙で入り組んだ気持ちを、自分の内側に沈潜させるのではなく、どこかに吐き出すものでなければならない。それこそが苛立ちをビートするということの意味だ。慰め、鎮めるのではなく、たたきつけ、笑い飛ばし、点火して燃やし尽くすこと。そういう単純さの持つ力を僕たちに取り戻させる音楽、それを僕たちはロックンロールと呼ぶのだし、それを僕たちは必要としているのだ。

「星の下 路の上」。僕たちはロックンロールを僕たちの手に奪還しなければならない。僕たちがそんな単純さの力を必要とする限り、佐野は路上で歌い続けるだろう。何度でもここに戻り、単純で身も蓋もないロックンロールを鳴らし続けるだろう。このEPが佐野のキャリアの中で重要なものになるのだとしたら、それはここに収められた曲が、そんな単純さ、明快さに裏づけられているからだ。僕たちの生への直接性に支えられているからだ。そのような直接性への渇きを持ち続けることでだけ、僕たちはロックンロールを聴く「資格」を手にすることができるのではないかと僕は思う。



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