大切なもの
私はこの記事を読んで、どうにも腑に落ちませんでした。確かに自分の住む住宅に、本人が不快と感じるようなチラシが配られることは、誰も喜びはしないでしょう。しかしそれを言ってしまえば、一般の商業的宣伝用のチラシはもちろん、訪問販売や様々な勧誘の電話など、他にも不快に感じる宣伝行為は枚挙に暇がありません。ところがそうしたものは多少不快な思いをしても、誰も裁判を起こしたり、告訴までしようなどと思う人はいないはずです。 このニュースと併せて最近もうひとつ気になっていたのが、刑事事件被害者の氏名の公表を警察が判断する方向で、ある種の報道規制を敷こうとしている動きです。確かに何か事件があると、マスコミが被害者に対して無神経な取材や報道をすることが時々見受けられます。しかしだからと言って、警察が被害者の氏名を公表するかどうか判断するというのは、あらゆる面で自由主義国家として危うさを感じます。 しかしこうした表現の自由を束縛しかねない動きがある一方、敢えて規制強化の必要性を感じるのも、現代社会が抱えている大きな問題となっています。 先日見たニュースで、どこかの町でポイ捨てや自転車の路上駐輪、歩きたばこなどを禁止するという、本来はモラルで解決すべきことを、事細かに規定した迷惑禁止条例を制定しようとしているということで、街頭インタビューを行っていました。ある程度年齢の高い人たちの多くは、「仕方がない」「規制するべき」という意見が多かったのですが、ある若い男性はその内容を見て「自由を奪われる気がする」と言っていて、私は大変驚きました。その内容のほとんどは、少なくとも私の常識感覚では「しないのが当たり前」というものばかりだったからです。 こうして見てくると、凶悪犯罪にしろ、犯罪にならない程度の迷惑行為にしろ、規制を強化しなければならない人たちが増えることは、それを口実に何かしら自分達の有利なように計らいたい権力者達の、結局は手助けをしているようなもので、最終的に本当の自由を奪われることになってから後悔しても遅いはずです。冒頭の市民運動家の人たちの行為も、恐らく多少の行き過ぎはあったのでしょう。マスコミの報道の仕方も、しばしば過熱し過ぎるのも事実です。そしてつまらないマナー違反を繰り返せば、結果的にそのツケは自分達に回って来るのです。自由には責任が、権利には義務が伴うもので、それぞれが表裏一体のものとも言えます。 2005 Sophie / Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |