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私は以前から、「企業の安全に対する意識」というものに何がしかの危機感、あるいは恐怖心というものを感じていました。
1990年代半ば頃からでしょうか。業種を問わずあらゆる企業の施設や工場などでの火災や労働現場での事故、あるいは食品会社の食中毒事件や自動車会社のリコール隠し、そして航空会社の大小さまざまなミスやトラブルが、どうもそれまでに比べると増えてしまったように思えてなりませんでした。

バブル崩壊以降、国際競争力をつけるためにと、それまでの日本的な企業のあり方を問われ、多くの企業はなりふり構わず、効率化の名の元に不必要だと言われるものを削ぎ落として来た感があります。
90年代後半、リストラの嵐が吹き荒れる中、そのニュースを聞いては「辞めさせられる方も大変だけど、残される方も違った意味で大変だ」と、いつも思っていました。なぜなら、(単純な言い方をすれば)それまで5人でやっていた仕事を4人でやる、ひどい場合には2人でやっていた仕事を1人でやることになり、リストラされなかった人も厳しい労働環境になってしまったからです。

どんな企業も、責任を持って業務に当たるのは社員という「人間」です。そして人間である以上、自らの業務を完遂するには身体的、精神的に限界というものがあります。つまり「いい仕事」をするために、人間には「余裕」というものが必要となるわけです。普段は80〜90%の状態で仕事をしているからこそ、「いざ」という時に100%の仕事をできる、それが一般的な人間の能力だと思います。そう考えると、バブル期以降の日本の企業に求められた効率化によって、多くの人が常に100%近い状態を保たなければ自分の業務を遂行できない状態に置かれてしまったように思えてなりません。
ところが「安全」というものは、多くの人に余裕があってこそ保てるものではないのではないかと思います。また企業としても、安全確保には人的余裕と経済的余裕が必要です。しかし、効率化が優先されたここ十数年の日本で「余計にお金が掛かること」は、それが例え人命に関わることでも後回しにせざるを得ない状況が多かったのではないでしょうか。
先日の尼崎でのJR西日本の事故を見ていて、そんな思いを改めて強く感じました。今回の事故の原因を追究することはもちろん、その原因をJR西日本が是正することは当然のことでしょう。しかし、それだけでは問題が全て解決することにならないような気がします。

それから今回の事故のニュースを見ていて、最初私は「たった1分半の時間を惜しんだばかりに」と思いました。地方に住んでいる私は、市内を移動するバスに乗る時には10分、15分と待たされ、札幌を往復する特急を利用する際も、いつでも数分から数十分、ひどい時には数時間の遅れが生じ得るという環境にあるからです。
でも、自分が都会にいた時のことを思い出せば、確かに電車や地下鉄というものは数分置きに運行される便利な乗り物で、しかもそれが定刻通りに運行されるのは当然だと思っていました。また「たかが1分半」とは言え、数分置きに電車が走っていると、それに合わせてスケジュールを組みたくなるのは人情でしょう。
しかし、今回のJR西日本の事故の報道を見ていて、公共交通機関が運行されるに当たって、いかに多くの人の努力が必要だったのかということをはじめて認識しました。考えてみれば当たり前のことなのですが、あまりにも便利な世の中に生きている私たちは、そうしたことにあまりに無頓着になっているのではないでしょうか。そして経済的な効率化が叫ばれる中、企業がその努力をする中で失われ、忘れられたものを、顧客あるいは利用者である私たち国民一人一人もどこかに置き去りにしていたのではないかと思いました。

この事故を受けて、これからはどんな乗り物を利用する時も、多少の遅れに目くじらを立てることなく、また「安全第一」を一方的に企業の責任に押し付けることなく、それらのことを利用者も心に刻むべきだと、自戒の念を込めて強く思いました。
そしてこれを機に、今まで当たり前だと思っていたことのありがたみを、今一度考えてみたいと思います。



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