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小学校の英語教育必須化について、保護者の71%が賛成し、教員は54%が反対していることが、文部科学省の調査でわかった(教員の賛成は36%)。教員は国語を含む他教科の充実が優先すると考えているとみられる。 賛成理由で、最も多いのは「早くから英語に親しませておいた方が英語に対する抵抗感がなくなる」で、反対理由は「小学校では他の教科の内容をしっかりと学んでほしい」というものだった。

(北海道新聞 2005年3月11日)


私は数年前から子供の英語教育の問題が気になっていました。通信、交通などの発達ですっかり「地球が小さくなった」昨今、確かに外国語、特に英語の必要性というものは、英語を公用語としない日本でも増していることは間違いありません。そういう意味では、英語を話せるようになることは大いに結構なことだと言えるでしょう。
しかし、だからと言って、子供が小さいうちから英語を学ばせる必要があるのかといえば、私は甚だ疑問に思っています。

実際に、就学前の子供に英語を学ばせている友人に理由を尋ねたところ、小さいうちから学ばせた方が発音がよくなるからということでした。そして、そういう意見はメディアでもよく聞かれる話です。しかしそのことこそ、私が大いに疑問を抱いていることなのです。
英語に限らず、日本人は外国語を学ぶ際に「完璧主義過ぎる」ということを何度か聞いたことがあります。キレイな発音、正確な文法、そして語彙力。それら全てが備わらなければ、まるで外国語を話すことが罪なのかと言いたくなるほど、「技術」にこだわる人が多いように思います。
しかし、所詮言葉はコミュニケーションのための「道具」に過ぎません。多少発音が悪くても、文法が間違っていても、あるいは知らない単語があっても「自分の気持ちを伝えたい」、「お互いにわかり合いたい」という気持ちがあれば通じるものです。
逆に考えれば、日本人同士でも思いやりのない利己的な関係であれば、誤解してわかり合えないということはいくらでもあるはずです。

新聞記事にも出てきた「英語に対する抵抗感」というものも、別に早くから勉強したからといってなくなるとも思えません。逆に小学校で英語が嫌いになり、それが結局はトラウマになってしまう危険性も十分あると思います。
また今の日本で中学・高校の授業だけで英語を話せるようになれないのは、別に学習を始めるのが遅いからではなく、カリキュラムの問題なのではないかと思います。実際、言語脳科学の研究の結果、中学から英語学習を始めても十分に語学力を身につけることができるという記事を最近目にしました。また発音などは、恥ずかしがり屋や完璧主義といった民族性が災いしているだけで、素直な人であれば、ある程度リスニングを強化すればよくなると思います(個人的には発音にこだわる必要はないと思いますが)。
英語は中学校からの学習でも十分に必要な能力を身につけることができるようですし、むしろ国語力が身についた中学校からの方が効率的な学習ができるのではないでしょうか。
そして、なんと言っても英語は外国の人が話している言葉です。それを外国の物として捉えるからこそ、そこからメンタリティの違いも認識することができ、異文化を理解するという端緒にもなるはずです。

子を持つ親にしてみれば、自分の子供にはこれからいよいよ必要となる英語をキチンと話せるようになってほしいと思うことは当然のことです。しかし、今後の国際化社会で本当に求められるのは単なる英語力ではなく、真の国際感覚なのではないかと思います。いくら英語が堪能でも、相手と理解し合えないのであれば何の意味もありません。
世界は広く、様々な国があり、様々な民族と宗教があります。当然のことながらそれぞれ文化や習慣、あるいは価値観は多様で、それらをある程度知識として蓄積することはできても、全てを知ることは不可能と言っていいでしょう。だからこそ本当に国際感覚を身につけようと思うのであれば、大切なのはむしろ柔軟な心と豊かな感性、自分が知らなかったことに対しての寛容さや適応力、危機管理など、その 時々に必要とされる判断力やバランス感覚、そして自己を表現する率直さではないでしょうか。
中でも最も求められることは、「自分が何をどう見て、どう感じ、それをどう考え、どう伝えるか」ということで、母国語である日本語での読み書きはもちろん、コミュニケーションの基本である聞く・話すということができなければ自分の意見を発言したり相手の言っていることを正確に理解できず、ひいては英語を話せるようになっても同様の問題を抱えることになり、いくらキレイな発音で英語を話せても、絵に描いた餅になってしまう恐れがあります。
日本のように公用語が単一の国では、やはり自国語の能力が一番重要なはずです。最近は大人向けの日本語能力を向上させる本が流行るなど、明らかに日本人全体の国語力が落ちているのに、わざわざ同じ轍を子供たちに踏ませる必要はないと思います。
また、国際社会で求められる「議論」の重要性を考えれば、今の日本の国語教育に一番足りないのはディベートではないかとも思います。書いてある文章を的確に理解し、自分の意見をまとめる、あるいは相手の言いたいことを理解して受け入れた上で、自分の言いたいことを正しく反論する、そういったことができなければ国際社会で受け入れられるとは思えません。

それから日本国外にいると、もうひとつ求められることがあります。それは日本人としてのアイデンティティです。その最たる物としては、日本の文化や伝統、歴史などが挙げられます。私の経験としても、「お茶や着付けを習っておけばよかった」と後悔したことが何度もあります。

中身のない流暢な英語を話せる「だけ」の人と、多少スマートに英語を話せなくても日本人としての誇りを持って外国の人とわかり合える人、その違いを踏まえた上で英語教育以外に必要な学習は何なのか、文部科学省や子供を持つ親以外の人も日本の教育を考え直す時期にあるのではないでしょうか。 英語を話せるようになる前に、学ばなければいけないことはたくさんあるはずですから。



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