logo マスコミという権力


イラクでの2つの人質事件が解決し、とにかくよかったと思います。
ところが、先に拘束されていた3人が帰国したことを伝えるテレビの映像は、どれも何か「冷たさ」を感じたのは私だけでしょうか。
恐らく、事件発生当初の被害者家族の言動や、開放されて間もない頃の被害者の何気ない発言が、日本人独特の慎ましさという琴線に触れたため多くの人の反感を買い、政治家達がその気になって批判をし、マスコミもそれに敏感に反応した結果だと思います。

私がとても奇異に感じたのは、何と言ってもマスコミの変わりようでした。
当初はむしろ政府を責め、とにかく自衛隊を撤退させた方がいいという論調が多かったのに、一旦自己責任論が出ると、掌を返したように今回の事件でかかった費用まで算出する有様です。
そして世論の変化の中で感じたのは、マスコミ側の情報操作ともいえる行為です。
事件発生後数日は、街頭などでインタビューを取った映像などでも、自己責任を問う意見やテロに屈するべきではないという意見より、「自衛隊を返した方がいい」といった意見の方が多いのかと、受け手が思うように作ってあったのが、自己責任という言葉が飛び交うようになると逆に「人質になる方が悪い」と言わんばかりの報道が増えたような気がします。
さらに興味深かったのは、後から行方不明になった2人の解放後の言動です。まずこの2人が行方不明になっても、犯行声明のようなものが出されなかったということで、自ずと報道のトーンも違っていたというのは加味する必要はあると思います。しかし、それにしても家族のコメントにしろ、解放後の本人達のコメントにしろ、明らかに「学習」の後を私は感じました。

今回の事件がひと段落し、こうしてマスコミの動きを追っていくうちに、私はひとつの事件を思い出しました。それは松本サリン事件の冤罪報道問題です。
あの事件が起きるまで、私はマスコミというものは概ね正義だという漠然とした信頼感を持っていて、当然のことながら当時犯人扱いされた男性が「何かしでかしたんだ」というマスコミの報道を信じ切っていました。ところが後からそれは全くのデタラメだったと知り、マスコミに対し不信感を持つと共に、自分を含め一個人の情報処理能力というものの限界を感じました。そしてそれからは、報道されていることが事実なのか、論調が偏っていないか、他の意見はないのかなど、自分でできる範囲で情報を整理し、タレナガシの情報を鵜呑みにしないように気をつけるようにしています。

元々マスコミあるいはジャーナリズムというものは、公権力に対抗するために生まれて育ってきた歴史があります。しかし、現代のようにメディアの媒体が増え、しかも迅速になってきたために、マスコミそのものが権力と化す危険性が増してきた側面があるのではないでしょうか。
非常に難しいことではあると思いますが、一人一人がマスコミに踊らされることなく、あくまでもツールとして「利用」することを忘れずにいなければいけないのかもしれないと、今回の事件を通して思いました。



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