logo SOMEDAY Collector's Edition - ライナーノート


「SOMEDAY」というアルバム

アルバム「SOMEDAY」は1982年5月、佐野元春の3枚目のオリジナル・アルバムとしてリリースされた。それから20年を経た現在においても、このアルバムは佐野元春の代表作の一つとして高い評価を受けているばかりでなく、日本のロック・ミュージックに一時代を画した、まさにエポックメイキングな作品として語り継がれ、聴き継がれている。いったいこのアルバムがなぜそれほどまでにリスナーの心に響くのか、リリース当時からこのアルバムを聴き続けてきた者の一人として、この「Collector's Edition」のリリースを機会に改めて考えてみよう。

奥行きのある音作り

「SOMEDAY」以前に佐野は2枚のアルバムを発表している。そこには『アンジェリーナ』、『ガラスのジェネレーション』といった、初期の佐野を語る上で欠くことのできない重要な曲が収録されているが、実際のところ、それらのアルバムは佐野が新人アーティストとして、アレンジャーやプロデューサーの力を借りながら、試行錯誤して作り上げた一種の「習作」としての側面も強い。それに対してこの「SOMEDAY」は、佐野自身が自ら主体的にアレンジ、プロデュースを行い、作品そのものに深くコミットして作り上げた初めての「作品」だと言うことができるだろう。

そう思ってこのアルバムを聴けば、初期2作との違いがおのずと明らかになってくる。バンド・サウンドを核にした「BACK TO THE STREET」、「Heart Beat」とは異なり、アルバム「SOMEDAY」で佐野は明らかに深みと奥行きのある音、立体感のある曲作りを志向している。同じ楽器を複数で同時に演奏するオーケストラ的な試み、一つのコード進行に対してボーカルの背後で別のメロディを奏でる対位的な編曲、ディレイをかけた音像を左右のスピーカーに振り分けて立体的に聴かせるミキシング、ホールエコーを丹念に拾うレコーディング手法も含めて、このアルバムでは佐野の「曲」、「音」に対する強いこだわりが表れている。

こうした曲作り、音作りへのこだわりは、それまで日本のメインストリームのフォーク、ニューミュージックといったポピュラー・ミュージックの世界では省みられることの少ない分野だった。ある種の先駆的なロック・ミュージシャンの一部にはそうした試みを行っている者もあったが、それは決して広く一般に聴かれていた訳ではなく、彼ら自身もそのように聴かれようと意識していた訳では必ずしもなかっただろう。佐野は、そうした高度なソングライティング、アレンジのやり方を、マニアだけの閉鎖的な場所から開かれた市場へと引きずり出したのだと言える。

もちろんそれにはそうした高い音楽性を分かりやすいポップ・ソングに結実させるだけの優れた「翻訳能力」が必要であり、またその魅力を紹介し、伝えるオーガナイザーとしての存在感がなければならない。佐野がここで試みたこと、行ったことは、基本的に60年代、70年代の良質なロック音楽の再構成、再構築であり、それ自体純粋にオリジナルなものではなかったかもしれないが、それをアップ・トゥ・デイトな時代意識、問題意識で洗い直し、その普遍的な価値を音楽の現場に着地させたことは高く評価されるべきだ。

ロックンロールの再生

だが、このアルバムの特徴はそれだけではない。都市的な風景の中に新しい世代の乾いたリアリズムを活写し、情緒に寄りかからずにシーンを描写する方法で物語を浮かび上がらせる、都会のストーリーテラーとしての佐野の資質はそれまでの2枚のアルバムでも既に発揮されていたが、それが本格的に開花したのがこのアルバムだということもまた重要な事実だ。

佐野は当時、デビューアルバムから「SOMEDAY」までを「街をテーマにした三部作だ」と語っている。後になって「そんなことをいった覚えはない」と否定しているところから見ても、それは当初からそう企図されたものだというよりは、そうしたストーリーテラーとしての佐野のトライアルが、デビュー作から連続性を保って次第に洗練され、このアルバムで最初の頂点を迎えたものだということができるだろう。

そこで佐野がすくい取ろうとしたのは、大衆消費社会の出現の中でよりどころを失い、疎外されながらも、ストレートにドロップアウトするには内気で誠実すぎる都会の子供たち、キッズの心の動きだったと僕は思う。当時彼らにあてがわれた音楽は、甘ったるいフォークか洋楽しかなかった。その中間にあって、彼らの複雑でナイーブな痛み、切なさ、やるせなさや寄る辺なさを直接にビートする、コンテンポラリーで親しみの持てる音楽というものはほとんどなかったと言ってよい。

佐野は彼らのために、都市空間の中に居場所を用意した。それがこの「SOMEDAY」というアルバムのもう一つの重要な側面だ。もちろん佐野が歌い、物語った場所は所詮架空の「街」に過ぎない。しかし、だからこそ、それはすべてのリスナーの中に一つの純粋な像を結ぶことができた。佐野はそこでロマンチックに、しかし力強く、都会で生きて行くということの意味を物語ったのだ。地縁・血縁といった分かりやすい人間関係が存在しない場所で、我々はコミュニケーションの不完全性に打ちのめされながら、それでもだれかを求めざるを得ない。都市生活の背後に広がる闇の深さと、それにもかかわらずそこで持ち続けられるべきもののことについて佐野は歌った。

そこで佐野がそうした都市生活の陰影に対して与えた名前は「ロックンロール」だった。このアルバムを決定づける重要な曲『Rock & Roll Night』に耳を傾けてみよう。この曲はそれまでの「ロックンロール」という概念からは想像もできない、深い奥行きと広がりをたたえた壮大なロックオペラだ。この曲において、「ロックンロール」という言葉は、もはや典型的な音楽形態としてのそれを凌駕し、一つの概念にまで昇華されている。そこで佐野は都市生活の中で希求されるべき無垢について歌う。こうしたロックンロール概念はその後の佐野の音楽の中でも脈々と息づいて行くことになるが、その始まりはまさにここにあったのであり、それは陳腐化し、手垢にまみれた「ロックンロール」という言葉が再生する瞬間でもあった。

20年を経て今

このアルバムが、発表から20年経った今でもまったく古びていないとすれば、それはまず第一に、その音作り、曲作りの手法が、ロック音楽の普遍的な価値に直接立脚しているからだろう。同じように流行した音楽でも、すぐに「懐メロ」になってしまうものもあれば、いつまでも変わらずにその強さを保ち続けるものもある。このアルバムは間違いなく後者であり、それはこのアルバムがロックという音楽の底流にあってそれをロックたらしめている本質に根差しているからに他ならない。

そして第二に、このアルバムで佐野が提起した「ロックンロール」概念が、今日の社会でもまったく有効性を失っていないことも指摘されなければならない。いや、むしろ、都市生活の光と影にまつわる考察の重要性は、20年前より今日の方がよほど差し迫ったテーマだと言えるかもしれないのだ。当時僕たちが感じていた孤独や閉塞、絶望は、今やこの国全体を覆い尽くしてしまったかのようにさえ見えるし、それに対する有効な答えはいまだにどこからも示されていないように思える。佐野が20年も前にこのアルバムで示した視点は、ギリギリの限界で何とか機能し続けている今日の都市環境でこそ意味を持つものなのかもしれない。

そのような観点から考えるとき、今回このアルバムがボーナス・トラックとともにリイシューされることの意義は決して小さくないと言えるだろう。それはただの記念盤ではない。このアルバムが残したもの、僕たちの中に刻み込んだもののことをもう一度考え、そしてそれが今の僕たちの生活とどうつながっているのかを検証してみることは、単なるセンチメンタリズムを超えたポジティヴな意味合いを含んでいるはずだからだ。



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