stamp  第四信 : コンフリクト
Silverboy to あるまじろう


親愛なるあるまじろう様。元気でやってますか?

電車の中でだれかが携帯で話をしていると、僕たちはとても不愉快な思いをします。ペースメーカーの問題は別にして、電車の中で携帯をかけないのはエチケットだと感じている人は少なくないでしょう。もちろん、携帯で話す声は普通の話し声より自然に大きくなりがちだという事実はあります。でも、携帯より大きな声で話している人たちは他にもいます。逃げ場のない密室の中で大声で話すこと自体が他の人への配慮に欠ける反社会的な行為だというなら、それは携帯に限ったことではありません。

それなのに僕たちが電車の中の携帯だけを特に不愉快に思ってしまうのはなぜでしょう。それは携帯がその場のコミュニケーションに脈絡なく割りこんでくる「異物」だからではないかと僕は思っています。電車に乗り合わせた人たちの間には、ある種のコミュニケーションが成立しています。特に何かを話し合う訳でなくても、同じ場所と時間を継続的に共有している共通の意識(または無意識)があります。たとえその中の何人かがグループ内のおしゃべりに興じていたとしても、それが度を超すものでない限り、そのグループをも内包した一種の緩やかでテンポラリーな共同体がそこに形成されているのです。

ところが携帯はそのような暗黙のコミュニケーションに割りこんできます。それはその場の空気をかき混ぜ、泡立たせて、参加者の心を乱します。彼はそこにいながら別の種類のコミュニケーションに没頭しており、電車の中のコミュニケーションを省みようとはしません。いや、そこにコミュニケーションが存在することすら気づいていないかもしれません。その場のコミュニケーションに参加せず外部とのやりとりを優先することによって、彼は一種の特権性を手にしているといっていいかもしれません。僕たちはそのような特権性を憎んでいるのではないでしょうか。

もっとも、ここで僕が「特権性」というとき、それは必ずしも携帯を持つ人たちがそうでない人たちより「エラい」ということを意味していないことにはご注意ください。ここではそのような価値判断とは別の次元で、新たなコミュニケーション・ツールを持つ人たちが、そうでない人たちより、情報に対するアクセスの機会を余分に持つことを指して「特権」と呼んでいます。それは昨今言われ始めた「デジタル・デバイド」の問題とも通じる認識だと思います。価値の問題ではなく、事実の問題としての「特権性」です。

話を戻しますが、あるまじろうさんが前回の手紙で指摘されたように、携帯やモバイルは単に便利さをもたらすだけの福音ではありません。それは必然的に在来のコミュニケーションとの間に摩擦を起こし、僕たちの生活にインパクトを与えます。およそどんな文明の利器も、ただそこに、価値中立的に、付加的にポコンと現れるということはできないのです。何らかの意味で発展とか進歩を指向するものは必ず既存のテクノロジーとの間にコンフリクトを発生させるし、またそうでなければ発展も進歩もあり得ないのですから。

あるまじろうさんの前回の書簡は、携帯の便利さが、僕たちが日常から脱出するチャンスと引き換えに与えられたものだということを看破したものでした。これもあるまじろうさんが指摘されたとおり、僕たちは海外旅行などの「イベント」を契機として時折日常から離脱することで、日常の意味を外部から見直し、それを対象化、相対化して日常をより豊かに大切にしようと考えます。ところが携帯はそのような日常の外部や隙間の範疇を日常の内部に取りこむ働きを持っていますから、結局のところ僕たちはそれによって間断なき日常を生きることを余儀なくされるということではないでしょうか。

しかし、ここで重要なのは、携帯がそのように僕たちの日常のあり方そのものを変えつつあるということではありません。そこにおいて注意されなければならないのは、そのような変化は僕たち自身が望んだものだということなのです。もっと便利に、いつでも、どこでも「つながって」いたいという欲求。そのようなニーズが社会に広くあってこそ携帯は開発されたのだし瞬く間に受け入れられたのに他なりません。その使われ方に眉をひそめる人がいる一方で、もはや携帯なしでは都市生活は成り立たないと感じている人もまた多く存在するのはいうまでもないことでしょう。

つまり、僕が言いたいのは、携帯のない世界に後戻りすることはもはや不可能だということなのです。携帯が既存のコミュニケーションとの間に巻き起こすコンフリクトを取り上げて、それを論難するのは容易です。しかし、だからといって僕たちが携帯の存在そのものを「なかったこと」にしてしまえるのでない以上、そのような議論はナイーブな空想論の域を出ないでしょう。何かが昔と同じでないことを嘆いたり、どこかへ戻りたいと考えることは傲慢で怠惰な態度です。それは目の前で起こっていることの意味を意図的に矮小化して受け止めるという意味で傲慢であり、時間の流れの不可逆性に対する想像力を欠くという意味で怠惰なのです。

僕たちは、携帯が存在することを前提とした世界で、その携帯をどう受容するかというところからスタートするしかありません。新しい社会的なルールを形成し、そこから生じるインパクトを既存のコミュニケーションと調和させなければなりません。他人に対する関心・無関心の目盛りを微調整しなければなりませんし、自分と他人との境界も新たに引き直さなくてはなりません。結局、自己責任と自己決定という「自由」の両義性を、ある意味で不可避な与件としての現代社会の諸相の中でどのように位置づけて行くか、そして自分がそこにどのように関わって行くのかという問いかけにすべては収斂して行くような気がするのです。

それこそがこの往復書簡のテーマでもある「コミットメント」の問題に他なりません。もちろん、それを具体的に検証して行くことは気の遠くなるような作業です。でも、僕は、こうしてネットの中でだれかと果てしのない「質問と答え」を繰り返して行くことがその助けになるはずだと思っています。

ではまた。


Silverboy
2000.6.29



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