stamp  第二信 : 「生身」性の実感とその喪失
Silverboy to あるまじろう


親愛なるあるまじろう様。元気でやってますか?

最初のメール、とても興味深く拝見しました。「生身」性や「ありのままの自分」といった考え、そしてネット・コミュニケーションが思いがけずも「ありのままの自分」への「通路」を開いてくれたのではないかという問題提起、さすがだと感心させられました。

確かに僕たちは、日頃さまざまな些事に煩わされながら生活しています。定期的に腹が減ったり眠くなったり便所に行きたくなったり他にもいろいろしたくなったりする肉体という「実体」に依存しながら、また人間関係を中心とするしがらみに囚われながら、なかなか思い通りにならない不自由な毎日を送っています。オレだってこんなことやりたくてやってんじゃねえ、なんて思うのは日常茶飯事です。実体を持ち、社会性を持って人間関係の中で生きることの不自由、あるまじろうさんが「生身」性と呼んだのはそういうもののことでしょう。

そしてあるまじろうさんが「ありのままの自分」と呼んだのは、そのような全体としての自分から日常性や身体性や社会性やとにかくそういった諸々の「生身」性をはぎ取ったところに現れる「自分の核」のようなもののことだと思います。ただ、僕はこの「ありのままの自分」という言葉にちょっと違和感があるので、同じものを指して「本当の自分」と呼ばせてください。しかし、それでは「生身」性を離れた「本当の自分」とは何でしょうか。そんなものは果たして存在するのでしょうか。僕は端的に言ってそれは単なるフィクションに過ぎないと思います。あるまじろうさんがメールの終わりに自ら疑問を提出されているとおり。

自分自身のありようについて、「本来のもの」と「偽りのもの」、あるいは「純粋なもの」と「不純なもの」の区別をつけることなんてできるはずもありません。「ありのままの自分」ということで言うなら、むしろ「生身」性を引き受けたリアル・ワールドでの自分のありようそのものこそが「ありのままの自分」であり、そこから何かを差し引いたり、そこに何かを便宜的に付け足したりすることはもともと不可能だし無意味なんじゃないかと僕は思う訳です(これがあるまじろうさんの言う「ありのままの自分」に代えて「本当の自分」という言葉を使った理由です)。生身の自分から何を差し引けば本当の自分になるのか、そんな方程式が成立するとは思えません。

ところが、それとは別に、「今の自分ではない本当の自分」を探す、という考え方には確かにやはり捨てがたい魅力があります。それはなぜなんでしょうか。そこで見つけ出されるべき「本当の自分」とは何なのでしょうか。そしてそれはネット・ワールドでのコミュニケーションにどう関わってくるのでしょうか。

それは、最初に「生身」性の説明として述べた「実体を持ち、社会性を持って人間関係の中で生きることの不自由」への苛立ちが、グローバル化し、加速する情報資本主義社会の中で、飛躍的に増大しつつあるからではないかと僕はにらんでいます。逆に言えば、「社会」が巨大化してすごいスピードで動いてるもんだから、その中で個人として要求されるものが複雑になってるし、ひとりひとりが「生身」性として引き受けるべき「主体」の領域がすごく把握困難になってるんじゃないかな。だから「生身」性を自分の主体性として実感できない、これは本当のオレじゃない、ってことになるんじゃないでしょうか。何でもかんでも「情報資本主義」のせいにして、「現代の病理」だと切って捨てる論法は僕はあまり好きじゃないけど、みのもんたの顔とか見てるとそう言いたくなるね。

そうした「生身」性に対する実感の喪失を決定的にしたのがネット・コミュニケーションなのかもしれない。でも僕はネットであれ実社会であれ、コミュニケーションの本質自体は変わらないと考えるから、もしネットでコミュニケーションの「生身」性が損なわれつつあるならそれは実社会でも同じことが進行している「写し絵」に過ぎないと思います。ただ、ネットの登場によってそれが加速している、またネットがコミュニケーションにおける「生身」性の実感の喪失という問題をよりカリカチュアライズし、グロテスクに拡大して見せているということは間違いのないところ。だからネットの登場とコミュニケーションにおける「生身」性の実感の喪失のどちらが原因でどちらが結果かという「鶏と卵」問題の結論はとりあえず保留するとしても、その二つがそれぞれ互いに深く関係しているということ自体は肯定されるべきでしょう。

仮に、現代社会において「生身」性の実感を喪失したむき出しの自我が、ネット・コミュニケーションという匿名性の高い情報の流通市場を与えられて、異様な形で肥大しつつあるとしてみましょう。しかし僕たちが何となく甘い憧れのようなものを感じる「本当の自分」と、この「むき出しの自我」が果たして同じものでしょうか。僕には、自分探しを続けて日常性の仮面を剥いで行けば行くほど、人間の自我は醜悪な怪物性をあらわにするのではないかと思えてなりません。社会的な制約や身体的な限界によって制御されている欲望や感情が、そうした要因なしにただ個々の良心や自覚のみに委ねられるとき、それらは容易に暴走し、傷つけ、傍若無人に振る舞うのではないでしょうか。

「今、インターネット上に限らずコミュニケーション全体に、『生身』性 が避け難く伴っているという前提が薄くなり、ともすれば『生身』性を否定してしまいかねないムードに漠然とした危惧をおぼえることが、私の考え過ぎならば良いのですが」とあなたは書かれました。しかし残念ながらそれは決して考え過ぎではありません。いや、それこそが、僕たちが直面している問題の本質なのだと言ってもいいような気さえします。僕たちはビットを、電気信号を栄養にして生きて行くことはできません。どこまで行っても僕たちの身体は有限なものであり、また僕たちは具体的にだれかと関わることなしには生きて行けないのです。にも関わらずそのような「生身」性の実感が薄れつつあるということは、僕たちにとって無視できない問題であるように思われます。

「生身」性の実感の喪失は僕たちのコミュニケーションをどう変えて行くのでしょうか。そして僕たちはそれにどう向かい合うのでしょうか。あるまじろうさんの鋭い切り込みを期待します。ふふふ。

ではまた。


Silverboy
2000.3.15



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