logo 時代と切り結ぶということ


時代と切り結ぶというのはどういうことだろうか。それは決して時代と寝るということではない。しかしそれはアウトローとして時代の外に立ち、局外者として批判をすることでもない。それは常に時代と向かい合い、そこにあるものと自分との関わりを厳しく問いながら、時には社会を動かすオーガナイザーとなり、時には社会そのものと闘いながら、当事者として立ち続けるということである。

優れた表現者は、そのようにして時代と切り結ぶべき宿命を負っている。何が今、最も問題とされるべきなのか、自分は今、何を指さすべきなのかということを意識しながら、自分の表現がどうやってそうした問題意識とビビッドにリンクして行くかを模索すること、どうやって時代の最前線に立ち会い続けそこで起こることと関わって行くかということ、それが表現者に求められる最も重要な資質なのだ。

こうした課題はもちろんさまざまな方法で試されて行くだろう。だが、ことロックン・ロールに関する限り、そこで決定的に必要とされるのは直接性というモメントだ。表現の核としてロックン・ロールという武器を選ぶとき、そこには他のどんな表現にも増して時代と深くコミットし、その問題意識の最も先鋭的な部分と添いとげるべきミッションが生まれるし、そこにおいてもってまわった芸術性は邪魔でしかあり得ない。なぜならロックン・ロールは本質的にティーンエイジ・ミュージックだからであり、若さにおける苛立ちにはその理由を考える暇など与えられていないからだ。

ロックン・ロールは、そのような苛立ちを理屈抜きにたたきつけるためのメディアだ。だからそこではビートやスピードが決定的な役割を果たす。自分の気持ちの動きに最も近い言葉が力を持つ。直接性というのは、結局いかに同期するかということであり、その苛立ちのスピードを共有できるかということに他ならない。ロックン・ロールはその直接性に支えられた表現なのだ。

そのようなロックン・ロール観を前提とするとき、年齢を重ねるということはアーティストにとって時として致命的なダメージになり得るだろう。ロックン・ロールがそのような時代性と深く関わった音楽であり、直接性を重要な契機とする音楽である限り、アーティストは常にその時代意識、問題意識をアップデートし続けなければならない。彼の時代感覚が時代のありようとずれ、アウト・オブ・デートになるとき、そこに残るのはこっけいな道化に過ぎない。

年齢を重ねながら、そのような時代感覚を持ち続けることは決して容易ではない。大御所になってもはやアウト・オブ・タッチな大作を発表し続けたり、築き上げた業績を囲いこんでディナー・ショー的な予定調和に立てこもったり、そんなふうに「上がり」になったり、「降りて」しまったりせずに、ただのロックン・ロールを奏で続けることはたやすいことではないのだ。

だが、ロックン・ロールがティーンエイジ・ミュージックであることを意識するあまり、彼らに媚びようとする態度もまたロックン・ロールをスポイルして行く。お子様のために作られたロックン・ロールは、直接性という本質的な契機の対極にある。それは彼らを見下した態度に他ならないからだ。

結局、年齢を重ねたアーティストが、それでもロックン・ロールを奏で続けるためには、時代と切り結びながらそのさまをあるがままにたたきつけて行くしかない。それは壮絶なサバイバル・ゲームだ。自らの時代感覚が少しでもアウト・オブ・デートになれば、彼は容赦なく置き去りにされるだろう。そして時代感覚が確かでも、それをたたきつけるだけの体力や表現力が枯渇すれば彼はやはり最前線に立ち続けることができないだろう。彼は闘い続けるしかないのだ。過酷なようではあっても、それがロックン・ロールという言葉の意味なのだ。表現というものの本質なのだ。

「GO4」が僕にしっくり来ないのは、そこに僕が佐野元春の不要な「気負い」を感じてしまうからだ。鋭敏な時代感覚をただ自分の信じる言葉とビートに乗せてたたきつける。それだけが必要なことであり、それで十分のはずなのだ。それだけで力を持ち得るものが優れたロックン・ロールになるのだし、それだけで力を持ち得ないのならそれ以上に何をくっつけたってダメなものがよくなる訳ではないのだ。ところがここで佐野は自分の表現が十代の連中に届くかどうかということを意識しすぎているように思える。どんなビートが、どんな言葉が、現代のティーンエイジャーたちに似つかわしいかを考えすぎている。

繰り返して言うが、それは佐野自身の時代感覚が確かであれば、そしてそれをたたきつけるだけの力があれば自然に届くものなのだし、そうでなければいくら考えたところで現代のティーンエイジャーにぴったりのライムがみつかる訳ではないのだ。僕がむしろ「GO4 IMPACT」に強い吸引力を感じるのは、降谷建志のリミックスがそのような「配慮」や「気負い」とは無縁のところで、奔放にしかし注意深く構築されているからに他ならないだろう。

それは今回のアルバム全体についても言える。デビュー20周年を前にして、佐野はそのようなティーンエイジ・ミュージックとしてのロックン・ロールの本質と、長年支えてくれたファンへの感謝、彼らを喜ばせなければならないという気持ちとの間で、アルバム全体の焦点を絞りきれないまま制作しなければならなかったのではないだろうか。その結果、「驚くに値しない」や「君を失いそうさ」「だいじょうぶ、と彼女は言った」「シーズンズ」など楽曲としては高い水準のナンバーを揃えながら、これが今の佐野元春だという「強さ」に欠ける作品となって結実せざるを得なかったのではないかと思う。

僕はアルバムにさまざまなタイプの曲が混在していること自体を嘆いているのでは決してない。個々の楽曲はバラエティに富んでいてもいい(いや、むしろそうあるべきだ)、ただそれをアルバムとして統合して行くだけの強いモメント(それはとりもなおさず「時代感覚」であり「直接性」である訳だが)が希薄なことを懸念しているのだ。それはそこに不要な気負いや配慮が入り込んでいるからであり、それはもちろん佐野の誠実さの反面でもある訳だが、それが結局アルバムとしての自由さや勢いといったものを削いでいることを憂慮しているのだ。

もっと自由でいい。もっと奔放でいい。そうした自由さが解放されるライブでは、このアルバムの楽曲ももっと息づいて感じられるだろう。このアルバムが好きかと問われれば僕はもちろん大好きだ。なぜならそこにはいくつかのかけがえのない曲が収められているから。だが、いや、だからこそこのアルバムが迷子になった子羊のように感じられてならないし、そのことを残念に思うのだ。




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