「そして本当に自由でなけりゃ意味がないのさ、そうだろ」
長く暗い冬が終わると、ドイツ人たちは競って長い休暇を取り南の海岸を目指す。マジョルカ、イビザ、カナリア、南仏、クロアチアまで。ここでは太陽は貴重だ。わずかな日だまりにもまるで何かを惜しむように肌をさらす人たち。北の国で暮らす彼らは太陽の恵みの大きさを身にしみて知っている。暗闇に射す一筋の光の強さ、大切さを知っている。
しかし、ありあまる光は、時として何もかもを見えなくしてしまう。まぶしすぎる光にすべての輪郭が消されてしまうとき、僕たちはものの形が実は光ではなく影によって見せられていることを知るだろう。暴力的な光の洪水が僕たちの目をふさぐことを知るだろう。その時、光と熱は僕たちを焼き尽くすネガティブな力の源にもなり得るのだ。
「陽ざしがすべてを隠して行く」と佐野元春は歌う。何気なく歌われるこのフレーズが、しかし「雲が太陽を隠して行く」というようなありふれたイメージではないことに僕たちは気づくべきだ。明るすぎる、まぶしすぎる陽ざしがすべてを隠して行く。ここで佐野が歌っているのはそのような光の暴力性のことだ。だれも疑問を感じないほど当たり前の恵みである太陽が、その強さゆえにすべてを隠し、焼き尽くして行く。その逆説的なイメージに僕たちは気づくべきなのだ。
自由。ありあまる「自由」の中で、僕たちは息が詰まりそうになっている。本当の自由とはいったい何だろう。好き勝手に振る舞うこと? 「自分に正直に生きる」こと? 電車の中でいつでも電話できること? 不景気や、荒れる子供や、凶悪化する犯罪や、冷戦時代より頻発する内戦は、政治家や官僚や大企業やメディアのせいにして、面白おかしく今日をやり過ごすこと? 市民とか、庶民とか、そんな曖昧な言葉に自己を埋もれさせて責任を回避し、安全地帯からテレビを見てだれかの欺瞞に腹を立てること?
「これが自由なら 眠らせて欲しい」と佐野元春は歌う。それはかつて「本当に自由でなけりゃ意味がない」と歌ったことの必然的な帰結であったろう。僕たちが希求し、長い時間をかけて追いかけてきたもの。その結果僕たちが手にしたもの。これはヤツらの問題ではない。ヤツらなんて初めからどこにもいなかったのだ。そこには僕たちがいただけで、すべての問題は僕たちの問題に他ならなかったのだ。
自由とはもっと内面的なもののはずだ。すべての因習、すべての固定概念、すべての抑圧やシステムを離れて、自分の頭で考えること、自分で判断すること、そしてそれに責任を持つこと。それこそが「自由」の内実であるはずだ。あからさまにビートルズ的な旋律とアレンジに乗せて歌われるこの歌で、佐野はそのような当たり前の手続きを怠ってきた僕たちを告発する。「君を失いそうさ」と。「このままじゃ君を失いそうさ」と。
まぶしすぎる陽ざしがすべてを隠して行くように、ありあまる「自由」の中で、僕たちは息が詰まりそうになっている。ここにおいてこそ僕たちはこう叫ばなければならない。
「そして本当に自由でなけりゃ意味がないのさ、そうだろ」