logo 昨日までの君を抱きしめて


昨日までの君を抱きしめるのは、「さよなら」を言うためだ。

会社に勤めて10年が過ぎた。長い時間だ。まるで悪い冗談のようだけどそれは紛れもない事実。そして僕は1週間の休みをもらい、南イタリアに出かけた。断崖の上から入り江を見下ろすガラス張りのレストランで、2000年前にポンペイの街を一瞬にして壊滅させたヴェスビオ火山がゆっくりと暮れてゆくのを眺めながら、僕は毎日ディナーを食べた。6月のこと。

10年。長い時間だ。僕は随分変わっただろう。顔つきも、考え方も、食べ物の好みも、つきあう友達も、読む本も。僕は大人になった。自信をもって僕はそう言える。そう言わなければならない。僕はもうどこにも後戻りできないからだ。僕はたくさんのものを譲り、失った。しかしまた同時にいくつかの大切なものを手に入れた。それを僕は僕の「生」と呼べる。

そんなことを考えながら、僕はスープをすすり、パスタを食べ、ワインを飲んだ。僕は1秒だって同じ僕のままではいられない。僕は昨日までの僕を抱きしめる。僕は僕の「生」を肯定しなければならないから。僕は一瞬ごとの僕に「さよなら」を言いながら、新しい僕を迎える。なくしたものと手にしたものを毎秒決算しながら、僕自身を肯定し続ける。そうでなければ生きている価値なんて初めからないのだから。

ふりまわされたってどうってことはないだろう
大切な君だけが知っているなら

僕は僕であり続ける。身体中の細胞がすっかり入れ替わったとしても、僕は僕を育んできた時間の最先端で今ここにいるから。自信なんてどこにもない。でも変わらないものはどこかにある。僕はそれを知っている。だから僕は明日も会社に行ける。




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