logo ロックンロールに囚われた者


ロックンロールは本質的にガキのための音楽だと僕は思う。それは社会不適応者のための音楽であり、人間のクズやカスのための音楽なのだ。あのドタバタしたあか抜けないビートは、自分の下腹部で暴れ出す寸前のやみくもな衝動がうまく言葉で説明できないもどかしさを、手っ取り早く深夜のアスファルトにたたきつける必要から生まれたのだ。

今僕は30歳を過ぎ、サラリーマンとして自分でも不思議なくらい従順に生きている。そしてその結果世間並みから見ればおそらくは悪くない生活をしている。それは他でもない僕自身だ。紛れもない僕の生活だ。僕が選び、受け入れた僕の仕事であり僕の家庭だ。だけど時折、夜中に目を覚ましたとき、言いようのない不安が僕を襲ってパニックになりそうになることがある。「これは何なんだ、僕はいったい何をしているんだ」と。

性急さ、潔癖さ、過剰な自意識、あざ笑い、反語、知ったかぶり、スタイル、スノッブ、そうしたものの総体としての世界に対する違和感。そんな中で僕が、自分の足の踏み場を探すためにロックンロールの切実さを求めたのだとするなら、そのような稚拙な違和感をきちんと整理できないまま、そしてもちろんそれをきちんと貫徹することもできないまま、宙ぶらりんで走り続ける僕が、いまだにロックンロールを聴いていることは当たり前のことなのだろう。

友達の多くはもうロックなんか聴かないに違いない。レコード屋で流れるミッシェル・ガン・エレファントを聴いて衝動的にCDを買ったりなんかしないに違いない。もちろんその中には何の自己批評もないまま厚顔な「常識人」になったヤツもいれば、葛藤を経ながらも情況に強いられて「大人」になることの選択を余儀なくされたヤツもいるだろう。僕は無反省に「常識」を丸飲みするほどバカではなかったが、自分の少年期に自分で引導を渡せるほどタフでもなかった。

僕は自分を恥じている。そのように中途半端にしか成長してこられなかった自分を恥じている。自己のあり方を厳しく選択することを自分に課さないまま流れ着いてきた甘ったれの自分を、そして薄ら笑いを浮かべてゴルフをした帰りのクルマで小沢健二を聴く自分を。

情況に甘えている。そう言われれば僕には返す言葉がない。でも、だからこそここでロックンロールを求める僕もいる。あまりに「常識的」な世の中が身体に染み着けば染み着いただけ、真夜中にザ・コレクターズを聴かずにいられない自分に、僕は寄り添い、つきあわざるを得ない。なぜならそれは僕自身だからだ。僕はそのように毎日少しずつ死んでいるからだ。

僕はこれからもロックンロールを聴き続けるだろう。自分を恥じながら中途半端に生き続けるだろう。ロクに聴きもしないCDをジャンキーみたいに買い続けるだろう。古いCDを聴いて不意に涙を流すだろう。僕の子供は成長して行くだろう。僕は年をとるだろう。僕は出世するかもしれない。僕は旅行先の海岸でビールを飲みながら昔を思い出すだろう。僕の友達の何人かは僕より先に死んで行くだろう。僕は懐かしい歌の口笛を吹くだろう。ロックンロールはどこまでもついてくるだろう。僕はロックンロールから逃れることはできないだろう。

僕はロックンロールに囚われた。僕と同じようにロックンロールに囚われた人たちに、そしてロックンロールから逃れた人たちにも、このページを読んで欲しい。



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