logo レイ・ブラッドベリ 作品レビュー(短編集)

 

Dark Carnival 黒いカーニバル 1947 (ハヤカワ文庫 伊藤典夫・訳)

ブラッドベリの第一短編集である「Dark Carnival」の名を冠してはいるが別物と思った方がいい。「Dark〜」は本国でも長く絶版であり、27編の収録作のうち15編は「10月はたそがれの国」に再録された。伊藤の訳によるこのハヤカワ版は、「10月は〜」に再録されなかった12編のうち9編を収める他、「10月は〜」にも収録された「みずうみ」及び「Dark〜」に収録されていない13編を合わせ計23編を収めた本邦独自の編集によるものである。

収録された作品の数からも分かるように、作品はショートショートと呼べそうなものも含め掌編ばかりなので通勤電車でも気楽に読める。いかにも習作といった趣の初期短編もあり玉石混淆の感は否めず、またアンソロジーそのものの統一性などはないが、人の心に巣食っている原初的な恐怖をじりじりと焼いて行くブラッドベリならではイヤらしさはこの頃から一貫しており、原点に何があるのかを知ることができるという意味で興味深い。

「黒い観覧車」や「刺青の男」は長編「何かが道をやってくる」の原型か。他にも「火星年代記」に収められていておかしくない「青い壜」「全額払い」など読ませるものも少なくない。「みずうみ」「児童公園」「ダドリイ・ストーンのすばらしい死」なども悪くないが、これらは「みずうみ」を除いて「Dark〜」未収録の作品。ブラッドベリが「Dark〜」から一部だけを「10月は〜」に再録し「Dark〜」の重版を許さなかったのも理解できる。

 
The Illustrated Man 刺青の男 1951 (ハヤカワ文庫 小笠原豊樹・訳)

1952年に出版されたブラッドベリの第二短編集。1947年から1951年にかけて発表された18編の短編を収録し、プロローグ、エピローグを加えている。プロローグは語り手である「わたし」がウィスコンシン州の田舎の丘で巡り合った、全身に刺青のある男との邂逅について書かれたものだ。その男は、刺青が未来を予言するのだと言う。「わたし」の見る前で刺青はひとつひとつ物語を語り始める。それがここに収められた18編だというのだ。

この着想は短編集「黒いカーニバル」に収められた「刺青の男」や長編「何かが道をやってくる」から発展したものだろう。ひとつひとつの作品はそれぞれ別々に発表されたもので、そこに共通したテーマがある訳ではないが、この時期のブラッドベリにしか書けないような、抒情と背筋の凍りつく恐怖が共存する想像力の広がりがSFの形を借りて展開される。想像力は未来や宇宙に出かけるが、そこに描かれるのはあくまで人間の姿である。

収録作の出来にはばらつきはあるが、宇宙船の事故で宇宙空間に放り出された宇宙飛行士たちがヘルメットに装備されたインカムで最後の会話を交わす「万華鏡」、たまに帰ってきてはまたすぐに宇宙に旅立つロケット操縦士の父を子供の視点から描いた「ロケット・マン」、世界が終る夜にしずかにキスを交わしベッドに入る夫婦の話「今夜限り世界が」など、現実にはないものを描くことで現実以上にリアルな心情を喚起する傑作を収める。

 
The Golden Apples Of The Sun 太陽の黄金の林檎 1953 (ハヤカワ文庫 小笠原豊樹・訳)

1951年から53年頃の作品を中心に、22編の掌編、ショートショートを収めた第三短編集。過去にさかのぼり恐竜狩りをするツアーがもたらすタイム・パラドックスを扱った「サウンド・オブ・サンダー」、太陽への探検行を描いた表題作「太陽の黄金の林檎」などSF的着想の作品や、灯台を目指して現れる怪物をテーマにした「霧笛」、他人の身体に乗り移って恋愛を経験する「四月の魔女」などファンタジー的な作品もありバラエティに富む。

しかし、ここで目を引くのは決してそうした着想の面白さや新奇さではない。特に宇宙開発やタイムトラベルなどの純粋な空想科学的アイテムが陳腐化しむしろSFを揶揄するネタと化した現代において、本作で読むべきものは「発電所」の静かで強靭な世界認識であったり、「草地」の理想主義的で象徴的なコスモポリタニズムであったり、「山のあなたに」の物悲しいペーソスであったりといった、作家ブラッドベリの地力を示す作品だろう。

結局のところ、ブラッドベリにとってSF的な舞台装置やファンタジーのおどろおどろしさは、それらを通して人間の心の奥底に眠る生々しい感情に迫るための道具立てに過ぎず、彼が描きたいのは舞台装置そのものよりは、そうした一種の極限状態や仮定の世界に置かれた人間が何を考え、どのように振舞うのか、そしてそれが僕たちの日常とどこでつながっているかということに他ならない。ジャンルの奥にある人間への視線を読みたい作品。

 
The October Country 10月はたそがれの国 1955 (創元SF文庫 宇野利泰・訳)

第一短編集「Dark Carnival」からチョイスされた15編と、新たに加えられた4編で構成された短編集。新たに加えられたのは「こびと」「マチスのポーカーチップの目」「熱気のうちで」「ダッドリー・ストーンのふしぎな死」の4編で、このうち「ダッドリー〜」は先の「黒いカーニバル」にも収められたもの。おそらくは「Dark〜」に収められた初期の短編のいくつかに不満のあったブラッドベリが選び直した作品集ということなのだろう。

ブラッドベリが改めて厳選しただけあって、確かに収録作の完成度は日本版「黒いカーニバル」より総じて高い。サーカスの鏡の迷路にある歪んだ鏡に自分の姿を映して見惚れる侏儒をめぐる悲劇を描いた「こびと」、交通事故が起こると信じられない早さで集まってくる野次馬の秘密を描いた「群集」、行き着いた農場で人の運命を狩り取り続ける運命に囚われた男を描く「大鎌」など、豊かな着想でファンタジーの本質を示す秀作揃いだ。

病気のために部屋から出られない少年のためにいろんな人を連れてきてくれる飼犬のエピソードを描いた「使者」は、おそらくキングの「ペット・セマタリー」の原型と思われる作品で、結末は予想できるものの丁寧な書き込みでSFとファンタジー、そしてホラーが人間の想像力を介して地続きのものであることを示している。自宅に閉じ込められて育った少年を描く「びっくり箱」も印象深い。「黒いカーニバル」よりは先に読みたい作品集。

 
A Medicine For Melancholy メランコリーの妙薬 1959 (早川書房 吉田誠一・訳)

1948年から59年までに発表された22編の掌編を集めた第四短編集だが収録作の大半は1955年以降のもの。早川書房から「異色作家短篇集」の15巻として新書版のハードカバーとして刊行されており、文庫化されていないので手に取られる機会は少ないかもしれないが、1950年代半ばから後半のブラッドベリの作風を知るためには欠かすことのできない作品と言っていい。本邦初版は1961年で1974年に改版、2006年に新装版として再び改版された。

SFやファンタジーの体裁を取った作品を収めるものの、そうした道具立てとは無縁の、普通小説も多数収録されており、印象に残るのはむしろ少ない紙数で微妙な心の機微をすくいとろうとするような作品群。例えば冒頭の「穏やかな一日」。南仏のリゾートの海辺で偶然ピカソに会い、彼が砂浜にアイス・キャンディーの棒で絵を描くのを目撃する男の話だが、黙してそれを見守るのみだった男の心もちは人生の何事かを確かに示唆している。

あるいは浜辺に打ち上げられた人魚をみつけた男たち描く「たそがれの浜辺」もこれに似ている。ここで起こる事件は物語の最初と最後とで日常の様相を大きく変える訳ではない。それはただ我々の中を静かに通りすぎるが、その前と後では確かに我々の中の何かが変わっている。「かつら」や「月曜日の大椿事」のように今ひとつ分からない作品もあるが、「すばらしき白服」「誰も降りなかった町」「サルサのにおい」「ほほえみ」がいい。

 
R Is For Rocket ウは宇宙船のウ 1962 (創元SF文庫 大西尹明・訳)

創元SF文庫版巻末の解説「BはブラッドベリのB」(牧眞司)によれば、「ヤングアダルト層を読者対象とした『グレーテスト・ヒッツ』を二冊つくるという企画」により制作されたアンソロジーの第1巻。この時までにブラッドベリは4冊の短編集を出しており、主要な短編はそれらに収録されていたことから、この短編集とは重複が多く、新たに読めるのは『「ウ」は宇宙船の略号さ』『この地には虎数匹おれり』『霜と炎』の3編のみである。

「ヤングアダルト層」というのが具体的に何を意味しているのかはよく分からないが、タイトルからも想像される通り、宇宙時代をテーマにしたSF系の作品を中心に収めており、ブラッドベリのひとつの側面のプロトタイプとしては良心的な構成。長編扱いになっている「たんぽぽのお酒」から採られ最後に置かれた『タイム・マシン』『駆けまわる夏の足音』の2編も味わい深い。最初に手に取るブラッドベリの短編集としては悪くない。

ここだけで読める3編も宇宙もの。『「ウ」は〜』は宇宙飛行士に憧れる少年がその候補生に選抜される話。『この地には〜』は人間に感応する惑星に降り立った探検隊を描いたもの。『霜と炎』は太陽に近い惑星に不時着した人類の子孫の冒険譚で、本書中唯一中編と呼べそうな分量を具えているが、ストーリーが性急かつ便宜的で着想倒れになっている感を免れない。他の作品を揃えているならこの3編のためだけに買うかどうかは微妙だ。

 
The Machineries Of Joy よろこびの機械 1964 (ハヤカワ文庫 吉田誠一・訳)

1960年以降に書かれた短編を中心に、40年代、50年代の5編を含む21編を収めた短編集。『待つ男』や『休暇』、『少年よ、大茸をつくれ!』『かくてリアブチンスカは死せり』『死神と処女』『シカゴ奈落へ』といった、SFやファンタジーという「仕掛け」を借りた作品もあるが、作品のほとんどはO・ヘンリーを思い起こさせるような、人間の心の奥に潜むどうしようもない弱さを静かな一片の微笑に変えて行く掌編が中心となっている。

ロケット時代にキリスト教の教義との板挟みに悩む神父らのダイアログを取り上げた表題作『よろこびの機械』や、サスペンス仕立てで長い間わがままな母親に囚われたまま年を重ねた男性を描いた『ラザロのごとく生きるもの』などは、「赦し」というものの本質について、また運命をそれと受け入れながらなお何を信ずるに足るものとして自らの内に持ち続けるかということについて考えさせる秀作であり、その意味で宗教的ですらある。

また、かつて尊敬していた夫婦がすっかり俗物に堕しているのを目の当たりにする若者の物語『飛び立つカラス』やダブリンの街で出会う乞食に心を乱される男を描いた『オコネル橋の乞食』の辛辣な人間描写、映画プロデューサーに振り回される監督の話『ティラノザウルス・レックス』やコスプレ夫婦とでも言うべき『この世の幸福のすべて』などペーソスあふれる喜劇もあり、「人間を描く」ブラッドベリの筆致の成熟を思わせる作品。

 
The Vintage Bradbury 万華鏡 1965 (サンリオSF文庫 川本三郎・訳)

1965年に米ヴィンテージ社から刊行されたアンソロジー「The Vintage Bradbury」の全訳。このアンソロジーはブラッドベリが自ら選んだ自薦傑作短編集ということで、音楽になぞらえて言えば一種のベスト・アルバム。タイトルはもちろんヴィンテージ社の名を冠したもので、他の作家も同社から叢書を発刊しているということだからシリーズものなのかもしれないが、「年代もの」というタイトル通り初期の傑作をまとめた短編集である。

我が国では「朝日ジャーナル」の川本三郎が訳を手がけてサンリオSF文庫から1978年に出版されているが、ご承知の通り同文庫は絶版となっており、現在では古本を探すか図書館で借りるかしかない。僕も近所の図書館に注文して保存庫から取り寄せてもらった。試しにアマゾンで検索してみたが、同文庫の本は概して高値で取引されており、コンディションの微妙なものでも千円は下らず、ところによっては五千円以上の値段がついている。

上記のとおり初期の傑作短編をブラッドベリ自ら編んだものなので、実際にはここに収められた作品のほとんどは過去の短編集で読むことができ、この本でしか読めないのは『すると岩が叫んだ』という短編だけ。核戦争によって北半球の白人世界が消滅した後、旅行先のメキシコに取り残された裕福な白人夫妻の物語だが、困ったことにこれが恐ろしく質の高い作品。こういうのこそ電子書籍で読めるようにして欲しい。図書館で探すべし。

 
S Is For Space スは宇宙(スペース)のス 1966 (創元SF文庫 一ノ瀬直二・訳)

タイトルで分かるように「ウは宇宙船のウ」の続編となるアンソロジー。前作で「ウ」を使ってしまったのでやや苦しいタイトルになってしまったものか。前作を素直に「ロはロケットのロ」とでもしておけばよかったものを…。アンソロジー自体の刊行は1966年だが、収録作は1945年の『透明少年』から1962年の『ぼくの地下室においで』まで概ねまんべんなく、全部で16編が採られており、ブラッドベリへの入り口としては悪くない編集。

内容的にも『ゼロ・アワー』『ぼくの地下室へおいで』(『少年よ、大茸をつくれ!』の改題)『浅黒い顔、金色の目』のようなSF仕立ての作品、『透明少年』や『泣き叫ぶ女の人』などのファンタジーやホラーに属するもの、「たんぽぽのお酒」からの『市街電車』など、ブラッドベリのパブリック・イメージに忠実なセレクションとなっており、自選集であることを考えれば、ブラッドベリ自身のセルフ・イメージを知る上でも興味深い。

ここでしか読めないのは『さなぎ』『火の柱』『泣き叫ぶ女の人』の3編のみ。『さなぎ』(1946年)はバラードを思い起こさせる作品だがラストが分かりにくい。『火の柱』(1948年)は迷信が途絶えた未来社会に再生したゾンビの物語だがやや消化不良か。『泣き叫ぶ女の人』(1951年)はホラーのテンプレートのひとつに則った作品で、エピソードとしてはよく考えられている。この3編のためだけに本作を買うべきかは微妙な判断か。

 
I Sing The Body Elactric!
キリマンジャロ・マシーン / 歌おう、感電するほどの喜びを!
1969 (ハヤカワ文庫 伊藤典夫他・訳)

「ベストもの」を除けば第六短編集に当たる作品。収録作のうち最も古い作品は1948年作の『明日の子供』だが、大半は1964年から69年の作品。我が国では81年に「キリマンジャロ・マシーン」のタイトルで早川書房から、84年にはサンリオSF文庫から「ブラッドベリは歌う」のタイトルで刊行され、その後ハヤカワ文庫から「キリマンジャロ・マシーン」「歌おう、感電するほどの喜びを!」の2分冊で刊行されたが現在いずれも絶版のようだ。

18編が収録されているが、ここではもはや道具立てがSF的かとかファンタジー的かということすらどうでもよくなっている。要はブラッドベリが描きたいものを描く時、彼は火星であれ(『夜のコレクト・コール』『火星の失われた都』)、タイムマシンであれ(『キリマンジャロ・マシーン』)、奇跡であれ(『霊感雌鶏モーテル』)、あらゆる現象を自在に操るのであり、それはダブリンのうらぶれたパブの喧騒とまったく等価のものなのだ。

ブラッドベリがそこで描きたかったものとはいったい何か。それはおそらく、僕たちが人間として生きることに避け難くくっついてくる泣き笑いであり、滑稽さであり、悔恨であり、そして美しさなのだ。死に時を失したアーネスト・ヘミングウェイをタイムマシンで彼が死ぬべきであった時点まで連れ戻そうと試みる表題作の、何の説明も与えられない不親切な明快さこそが胸を打つ。他にも『霊感雌鶏モーテル』『大力』など名作揃いだ。

 
Long After Midnight とうに夜半を過ぎて 1976 (河出文庫 小笠原豊樹・訳)

第七短編集に当たるアンソロジー。1970年代に入ってからこの作品集が刊行されるまでに発表された11編の作品と、1940年代から60年代の作品のうちそれまで短編集に収録されてこなかったものを中心に11編とをミックスした作品集。最も古いものは1946年の『ジェレミーの奇蹟』と『いつ果てるとも知れぬ春の日』。『青い壜』は本邦版「黒いカーニバル」にも収められている。直近の作品だけではボリュームが足りなかったということか。

そのような成り立ちを知って読めば、初期の作品には『十月のゲーム』のようなダーク・ファンタジー、『木製の道具』や『罪なき罰』、『永遠と地球の中を』などのようなアイデアSF的なものなどが典型的に見られる一方、70年代の作品にはヘミングウェイへのオマージュ『親爺さんの知り合いの鸚鵡』や同性愛をテーマにした『語られぬ部分にこそ』など、より普遍的な文学性を意識した作品が中心で、作風の変遷を跡づけるかのようだ。

とはいえ、そうとばかりは言えない作風の短編も入り乱れており、54年の『日照りのなかの幕間』と76年の『第五号ロボットGBS』などは年代が逆でもおかしくないし、62年のアイルランドもの『なんとか日曜を過ごす』や73年の『板チョコ一枚おみやげです!』などは年代を問わぬ深みを具えている。1920年生まれのブラッドベリは70年には50歳。ブラッドベリ作品のバラエティに富んだ意匠と、一貫した視点がしっかり腑に落ちる作品だ。

 
A Memory Of Murder お菓子の髑髏 1984 (ちくま文庫 仁賀克雄・訳)

発表されたのは1984年であるが、原題が「殺人の思い出」、邦訳のサブタイトルが「ブラッドベリ初期ミステリ短篇集」となっている通り、収録された短編はすべて1944年から1948年の間に書かれたミステリ、探偵小説の体裁をとったもの。ブラッドベリは一般にSF、ファンタジーの作家として知られているが、初期に書き散らかした習作ともいうべき大量の短編の中には探偵小説を意識したものもあるようで、それを集大成した作品集である。

この中で、冒頭の『幼い刺客』のみ「10月はたそがれの国」に『小さな殺人者』のタイトルで収録されているが、他はそれまでの短編集からはこぼれ落ちていた初期短編で、書誌の隙間を埋める良心的な企画。まあ、パルプ・マガジンに書き捨てられ、長く短編集にも収録されてこなかった初期の短編なので、内容的には「ふふ」と含み笑いしたくなる微笑ましいまさに習作も少なくないし、特に犯人探し、謎解きの質が高いとは正直言い難い。

だが、それでも、とんでもないことが起こっているのにだれもそれを分かってくれない悪夢のような『トランク・レディ』、ヤンキーとパチュチョス(メキシコ人のちんぴら)との諍いを背景にした『長い夜』、メキシコの死者の日を舞台に老闘牛士の妄想を描く『お菓子の髑髏』など、物語としての深みをたたえた作品も少なくない。死者の日を題材にした短編は他にもあったように思うけど何だったっけ。影をたたえたメキシコものがいい。

 
The Toynbee Convector 二人がここにいる不思議 1988 (新潮文庫 伊藤典夫・訳)

第八短編集にあたるアンソロジー。書き下ろし10編を含む1980年代の作品21編に、1945年の『墓石』と1954年の『ときは六月、ある真夜中』を加えた23編を収録。『墓石』は「Dark Carnival」に収められたが、改版である「10月はたそがれの国」には再録されなかったもの(本邦版「黒いカーニバル」には収録)。内容的には初期作を思わせるファンタジーもあり、またO・ヘンリー的なペーソスを漂わせる掌編ありとバラエティに富んでいる。

それにしても、初期の2作品を除く直近の作品を読んで感じるのは、その手管の円熟以上に、そこにある世界観の限りない肯定性だ。もちろん、バッド・エンド、後味の悪い物語もある。しかし、「それにも関わらず世界はここにこうしてあることそれ自体によって祝福されている」とでもいうような、バッド・エンドの滋味を味わいつつそれを味わえることを言祝ぐような、起こったことはすべて善きことだ的な現実への慈しみを感じるのだ。

その中で異彩を放つのはやはり年代の異なる『ときは六月、ある真夜中』か。それ以外には「火星もの」の『恋心』、ダーク・ファンタジーの『階段をのぼって』、着想で読ませる『号令に合わせて』、類型的ではあるが赦しの意味を問う『ゆるしの夜』などが印象に残る。既に悠々自適の境地に入りつつあったであろう時期にあって、作品に真にダークなモメントを忍ばせることは逆に難しくなって行ったのかもしれない。筆力は間違いない。

 
Quicker Than The Eye 瞬きよりも速く 1996 (新潮文庫 伊藤典夫他・訳)

同時期に発表された短編を編年式にとりまとめたものとしては第九短編集となるもの。1946年発表の『電気椅子』と1978年発表の『石蹴り遊び』を除いて、1994年から1996年の間に発表された、当時としては最新短編を収めている。『あとがき――生きるなら走れ』を合わせて22編を収録。毎回、短編集未収録の古い作品をひとつかふたつ入れるのはポップ・ミュージックのベスト・アルバムみたいで興味深い。熱心な読者のためのサービスか。

この短編集で顕著なのは、「ひねりとペーソスで読ませる大人の掌編」がグッと減り、まるで初期に先祖がえりしたかのような、幻想的でダークな味わいの作品が大きな割合を占めていることである。初期作の『電気椅子』はもちろんだが、むしろ、大蜘蛛との格闘譚『フィネガン』、オスカー・ワイルドを引く『究極のドリアン』、古典的な『魔女の扉』『無料の土』など最近作に悪趣味ともいえるファンタジーが炸裂しているのは興味深い。

もちろん一方で『何事もなし、あるいは…』や『バッグ』のように、生きることの陰影を巧みに忍ばせた作品もあるし、『キリマンジャロ・マシーン』を彷彿させる『最後の秘跡』のような作品もあるが、ペーソスものの『忘れじのサーシャ』『芝生で泣いてる女』などもファンタジー風味。もっとも人間のありようを峻厳にしかし愛惜をこめて描く点で初期ファンタジーとは異なった成熟を示しており後味は決して悪くない。新装版で読める。



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