logo 誰もほめないのならオレがほめる


「ロッキングオンジャパン」1992年2月号掲載。正確なタイトルは「誰もほめないのならオレがほめる ザ・コレクターズを甘く見るな!」。相模原の寮に住んで四谷のドイツ語学校に通ってた頃、僕が26歳の時に書いたものだ。一般投稿が掲載されたものだが、書店で売られている雑誌に初めて載った僕の文章かもしれない。不適当な表現もあるが、修正すると流れを損ないそうなので、記録のためもあって修正していない。


目がトんでいる。
初めて加藤ひさしをみたとき、僕はそう思った。髪を真ん中分けにした加藤は、変態と形容するしかないような薄気味悪い笑いを浮かべ、巨体を持て余すように痙攣させながら、時折白目をむいては音域以上の声をだそうとしていた。会場のどこかから「加藤さんカッコいい」という女のコの嬌声が飛んだとき、僕と当時の彼女は顔を見合わせて大笑いしたものだ。カッコいい? この三十男のどこがカッコいいというのだ? 加藤ひさしは確かに奇形児だった。
その時僕が思いだしていたのはエヴリシング・バット・ザ・ガールだった。トレイシー・ソーンとベン・ワット、こいつらの異様な顔を「アイドルワイルド」のジャケットで見たときのことがなぜだか脳裏に甦ったのだ。そして僕は妙に納得したのだった。

ザ・コレクターズは日本のロック界においても奇形児であり続けている。奴らの作り出すポップな曲の数々はクオリティーからいっても間違いなく一流だし、演奏でも長年連れ添ったリズム隊をクビにしてまで日々進歩を遂げているというのに、奴らは商業的にブレイクするどころか、まともな音楽ジャーナリズムからさえほとんど黙殺に近い扱いを受けているのだ。Xやバクチクには巻頭の特等席を惜し気もなく割いてみせる良心的をもって任じる某誌でも、ザ・コレクターズにはせいぜいアルバムリリースに合わせて見開きのインタヴューを掲載する程度である。
なぜだ。
奴らのどこに不足があるのだ。
確かに奴らは偽物だ。偽物だし借り物だしインチキだ。ザ・フーやザ・ジャムやスモール・フェイセスといったモッズ御用達のバンドはおろか、ザ・ビートルズやXTC、エルヴィス・コステロなどのイディオムまでが露骨に引用されているし、歌詞にはバットマンやらワンダーガール、ギャング団やらサーカス団やらが頻出するし、まあロックにシリアスなイノヴェーションやメッセージを求める人たちにはまったく眉をひそめるべきB級のお子様ロックに見えるのもしかたないのかもしれない。だけどそれは、確認に満ちた「大人のためのお子様ロック」なのだ。
奴らのファーストに収録されている曲に「おかしな顔」というのがある。これは代表曲でもないし、おそらくは加藤自身も単なるポップチューンのつもりで書きとばしたどちらかというとフィラーに近い曲だと思うが、ここで奴らはこう歌う。

ファニーフェイスファニーフェイス
いつまで僕を苦しめるの

おたくとして暗い青春を過ごしたであろう加藤の恨みつらみが古市コータローの爆裂スタイリッシュリフに乗って極上のポップチューンに変成して行く瞬間、それはザ・コレクターズ独特の閉じた言説の空間に僕たちが囚われて行く瞬間でもある。そして4枚目に至って加藤はさらにこう歌わざるを得なくなる。

クレイジー クレイジー
とうとう狂ったぜ
僕は気狂いアップル

それは自分がもはや気狂いで奇形で偏執的でしかあり得ないことの限りない肯定であり、逆にそれを武器としてとりすました常識を笑い飛ばしてやろうという自覚的な宣言なのだ。トレイシー・ソーンが美人であったらあのギリギリの緊張感をはらんだ透明な音楽は生まれてこなかったと思わせるように、加藤ひさしはモッズでなければならなかったのであり、G.I.ジョーや魔法のランプを歌わなければならなかったのである。
その分かりやすい歌詞に密かに盛られた毒はやがて僕たちの全身にまわって行く。コレクターズランドに閉じこめられた僕たちは、そこが実は恐ろしい歪みを秘めた憎悪の国であることを知るのだ。そして奴らは歌う。

とてもきみに似ているよ
闇の男さシャドウマン

それは僕であり、君であり、もちろん奴ら自身のことでもある。

渋谷ON AIRで、加藤は(どちらかといえば)まともなマッシュルームカットでやはり音域以上の声を出そうと顔をゆがめていた。最新アルバムは確かにポップになったかもしれないが、こいつらは何も変わってなんかいない。甘く見ているといずれ痛い目にあうかもしれない。



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