logo 都市生活者の系譜――佐野元春私論 消費されたロックンロール


雑誌「デマゴーグ」掲載の佐野元春評論連載第3回。2000年発行の第3号に掲載された。まだまだ続くはずで実際には原稿も最終回まで完成していたが、残念なことに雑誌自体が第3号を最後に休刊してしまったので連載も打ち切りになった。いずれどこかで残りを発表する機会があればと思う。


佐野元春が日本のポピュラー・ミュージック・シーンに持ち込んだものがリスナーにどう受け入れられ、どのような「約束」として結実していったのかということについて前回は書いた。今回はその約束がしかし恐ろしい勢いで商業的にかすめ取られていった過程と、それに呼応してニュー・ヨークに渡った佐野が何を手にしたのかということを中心に考えてみたいと思う。

佐野元春はインテリジェンスに裏づけられたロックンロールとでもいうべきもので、それまで日本の音楽市場では明確にカテゴライズされていなかった中学生から大学生までの層に大きな足がかりを作った。83年に行われた「Rock & Roll Night Tour」では、大阪フェスティバルホール、中野サンプラザといった大ホールを埋める動員力を持つに至ったし、同年に発売されたベスト・アルバム『No Damage』はついにチャート1位を獲得した。それは佐野が一種のオピニオン・リーダーとして、こうしたティーン・マーケットを組織することに成功した最初の輝かしい時期であった。
しかし、佐野によって切り拓かれたこの魅力的な市場をレコード業界が放っておくわけはなかった。市場には佐野的なイディオムを使って佐野的なアティチュードを気取る「なんちゃって佐野元春」が男女問わず雨後の筍のように次々と出現した。彼らはたとえば佐野が「つまらない大人にはなりたくない」というスローガンで切り取って見せた世代の断絶感やぎりぎりの潔癖さのような情感を、極めて巧みに、しかし所詮は表層的かつ職業的に剽窃して行ったのだ。
そうした動きは市場の底辺をおし広げることには寄与したかもしれないが、それによって佐野が日本のロックに持ち込んだロックンロールの再発見というテーマ、都市生活者の内なる無垢やストリート・ライフといった概念は恐ろしい勢いで消費されて行った。僕たちは佐野が注意深く拾い上げ、その内実をコンテンポラリーな問題意識を通して再検討することによって活性化した表現が、あっという間に再び手垢にまみれて行くさまをただ指をくわえて見ていることしかできなかった。そして佐野が、旧態依然とした人生応援歌的な精神性を佐野的イディオムに包んで歌うだけの「なんちゃって元春」たちの頭目であるかのように揶揄されることにも耐えるしかなかったのだ。
もちろんそれは裏を返せばそれだけ佐野のメソッドが的確かつ有効であったということの証左にほかならないわけだし、彼が掘り起こしたティーン・マーケットにそれだけの潜在需要が眠っていたということだ。しかし、音楽的な才能もバックボーンもないヒーローが、眉間にしわを寄せて陰鬱で稚拙な青春恨み節を歌うとき、そこにおいて慰撫されていたのは佐野が本来解放しようとしていた都市生活のダイナミズムとは随分異質なコンプレックスや自閉であった。そうした鬱屈もまた音楽によって癒されるべき対象であり得ることは否定しないが、それに対応すべきなのは都市生活のクールネスであるよりむしろ旧来型の情緒的な慰めでありもたれ合いであるはずだ。そうしたものまでを佐野的なマーケティングによってまるで何か新しいもののように仕立て直し、「ロックンロール」の名を冠してティーンエイジャーたちに売りさばくやり方は決して誠実なものとは言えないし、それはむしろ佐野が、そして僕たちが最も唾棄すべきとして嫌ったものにほかならなかったのではないだろうか。

「個」の本質への眼差し

佐野と彼らの間には画然とした一線があったことを僕はここでもう一度強調しておきたい。もちろん彼らの多くは長い年月の中で淘汰され、過去の人となってしまった。だがその一部は今でもしぶとく生き残り、無反省な演歌ロックを歌い続けているし、彼らが相手にしていた耳の悪いリスナーたちの市場は今やJロックだのJポップスだのという薄気味の悪い呼称を得て巨大なマス・システムへと成長してしまったからだ。
佐野と彼らを分画する最も明白な相違は、そこで歌われる無垢への切望が、しかしそのような無垢が結局僕たちの手に帰することは本来的にあり得ないのだという絶望を背景にしているかどうかということにほかならない。それはとりもなおさず、希望を口にする自分がどれだけシリアスでヘヴィーな現実認識に立っているのかということであり、逆に言えば、そうしたシリアスでヘヴィーな現実認識に立ちながらそれでもなお信ずるに足るもの、求めるに足るものを見出そうとする祈りのような希望の存在を問うことだ。

あまたの佐野元春フォロワーが、しかしその凡庸さゆえに結局は佐野以前の「ニューミュージック」と同じような情緒的もたれ合い的認識をしか提示できなかったことの貧困は、つまるところ人間存在というものが本質的に不完全なものであること、従って人間同士のコミュニケーションもまた完全なものではあり得ない、だれかと「分かり合う」なんて本来的に不可能なのだということの無自覚に起因している。僕たちが生きて行く上でまず大前提として引き受けなければならないそのような種類の諦観や絶望の存在を忘れて歌われる青春恨み節や人生応援歌は、それぞれの個人が負っている種類も深さもバラバラの痛みを本源的に肩代わりする覚悟も度量もないのに、表面だけもっともらしい美辞麗句を並べて分かった顔をし、その痛みを明日に先送りするだけの質の悪いコメディのようなものに過ぎない。
そこには人間はしょせんひとりで生まれてひとりで死んで行くのだという事実への眼差しや想像力が決定的に欠けている。僕たちが宿命的に引き受けざるを得ない孤独の本質を直視せず、それを生ぬるい共同体の中で慰め合うことによって克服できるという根拠のない幻想で個の成長の契機をスポイルしてしまう。「ひとり」を引き受ける強さもなしに「だれか」と寄り添ってみても、そこには醜悪なもたれ合いがあるだけだ。
このようなもたれ合いの本質は、かつてニューミュージックが依拠していた情緒性としょせんは同根であった。自己に対する厳しい省察、引き受けるべき痛みとの対峙を回避し、曖昧で無責任な共同性の薄明の中に「弱さ」の同盟で立てこもろうとする態度。それはいくら威勢のいい「元気」で飾られていても、あるいはいくら深刻な「不満」で彩られていても、都市生活の中に「個」の居場所を見出そうとした佐野のやり方とはまったく正反対のものであった。しかし、そのような旧態依然のメンタリティを佐野的なイディオムでリ・パッケージしただけの「演歌ロック」「駄々っ子ロック」は瞬く間に市場を席巻して行く。そして佐野が日本のポップ・ミュージック・シーンに持ち込んだ新しい世代観の有効性そのものが、そうしたまがいものの流通によって次第に陳腐化し、力を失っていくことにもなった。

表現を更新すること

87年5月に行われたインタビューで、そうした情況に対して意見を求められた佐野はこのように答えている。

「いま僕がここで言えるのは、それはロック・クリティックスの仕事じゃないかっていうことだ。あるいは、もっと本質を見極めてみれば、1980年あたりから現れた、一種のレコード会社が言うところのティーンエイジ・マーケットの中で非常にお金儲けを上手にしている連中のことを、ロック・クリティックスは指さすべきだと僕は思う。あるいは日本の、広告代理店、音楽事務所、レコード会社、この5年間にしたことを、いいことも悪いことも含めて指摘するのが、僕はロック・クリティックスの仕事だと思う。」(「AS 10TEARS GO BY」ロッキング・オン)

しかしロック・クリティックスはごく一部を除いてそうした作業を怠ってきたように思える。なぜなら、彼らの多くはそのような音楽産業のシステムの内部で相互に依存しながら成長し、発展してきたからだ。結局佐野は、自分の表現がそのように消費されて行くことに対して、再びひとりで闘いを始めるしかなかった。それは、佐野が自らの表現を通じてリスナーと交わした約束を誠実に守り通そうとするとき、彼に残された唯一の手段でもあった。

1983年4月、佐野元春は単身ニューヨークに渡る。前年に発表したアルバム『SOMEDAY』はチャートで最高四位を獲得し、全国ツアーでは大ホールを満員にする動員力を見せた。ちょっとした「佐野元春ブーム」とすら呼べそうな情況が生まれつつあった。この情況を利用してそれまでの作品の路線で拡大再生産を図り、ティーン・マーケットに確固たる地歩を築くことはある意味で賢明な選択であったかもしれない。しかし佐野はそうしたやり方を選ばなかった。なぜなら、そうしたやり方が結局自分の表現をどん詰まりに追い込んで行くのだということを佐野は自覚していたからだ。そしてまた、恐ろしい勢いで商業的にかすめ取られつつあった自らの達成を、更新し、発展させなければ自分もその波に呑み込まれてしまうのだということを。
だからこの渡米はありふれた海外レコーディングではなかった。佐野はニューヨークでアパートメントを借り、街を歩き回り、クラブに通い、そうやって少しずつこの街のビートを手にしていった。雑誌「THIS」と「MOTOHARU RADIO SHOW」として知られるラジオ番組「サウンド・ストリート」を通じてリスナーたちと懸命にコミュニケーションを保ちながら、佐野は自分の中で新しい化学反応が起こるのを待った。それはリスキーなやり方だったしそこには何の保証もなかったけれど、佐野にはそこまで自分を追い込んでみる必要があったのだ。

佐野のこうしたトライアルは1年がかりでアルバム『VISOTORS』へと結実して行くことになる。この作品は佐野のこれまでの活動の中でも特異なアルバムであり、また同時に極めて重要なアルバムでもある。次回は、このアルバムで佐野が行ったこととそれがどのように受け入れられていったのかということを考えて行きたい。



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