logo 都市生活者の系譜――佐野元春私論 僕自身の物語を探して


雑誌「デマゴーグ」の創刊号(1999年)で連載を開始した佐野元春に関する評論の第1回。創刊号の巻頭特集が佐野元春で、インタビューに続けて掲載された。この時ここに書いたことは今に至るも僕の最も根幹をなすもの。読み返して泣きそうになった僕も結構おめでたいが…。


1980年という時代

1980年の3月に佐野元春のシングル「アンジェリーナ」が発売されたとき、それが何かの始まりであることに気づいた人は少なかったし、それが何の始まりであるかを知っている人はさらに少なかった。そしてそれから20年近くがたった今、佐野元春という名前は確かにポピュラーになったが、彼の始めたものが何だったのか知る人は相変わらず多くはない。

佐野元春は変わり続けてきたし僕も変わってきた。もちろん僕はどんなものもすべからく転がり続けるべきだと思っているから、何かが昔と同じでないことを嘆くつもりもなければどこかへ戻りたいと考えている訳でもない。だけど、佐野が20年間シャウトし、吠え続ける中で見据えてきたビジョンの本質は変わりようがないし、その間僕が佐野の眼差しを借りて自分自身の中に信じようとしてきたものの残像もまたそこに強く焼きついたままだ。
今僕がやろうとしているのは、その残像の実体を少しでも形のある言葉に写し取ること。だからこれは決して佐野元春のバイオグラフィなんかじゃない。これは佐野元春に関する評論の形を借りた僕自身の物語であり、僕が佐野をどのように聴いてきたのかということの記録に他ならないのだ。でもそれは同時に、僕と同じように佐野元春を愛するだれかの物語でもあるかもしれない。あるいはそれは佐野元春を知らないだれかの物語ですらあり得るだろう。僕の物語がそのような重層性と多義性を持ち得るとき、それは僕ひとりの物語ではなくなり、真に評論と呼び得る普遍性を獲得できるのだろうと思う。

1980年、僕たちは飽き飽きしていた。僕たちは退屈していた。その頃僕たちの耳に入ってくるのはニュー・ミュージックという不気味な名前の生ぬるい音楽ばかりだった。それは70年代フォークから派生したものであったが、安保の終焉にともなってユース・カルチャーから政治性、党派性が希薄になって行く中で、自意識と世界との対立を対象化するモメントを外部に失い、しかもそれを厳しく主体的に引き受けることもしなかったために、結局そうした葛藤を曖昧で情緒的なクリシェに回収するしかなかった敗者の音楽である。それはいかにフォークやロックのフォーマットを借りてはいても、所詮は自分自身と正面から向かい合うことのできない者の音楽であった。当時ニュー・ミュージックの旗手といわれた者たちが今、当たり前のような顔をして演歌を歌っているのは、彼らのそうした精神性が結局は演歌と通底するものであったことの証左に他ならない。
彼らが歌っていたのは「愛している」という感情そのものではなく、「だれかを愛している自分」というものに対する無批判な自己愛であった。愛を失って胸の中心に残された洞穴のような空虚と対峙する意志ではなく、「愛を失った可哀想な自分」に対する無反省で自虐的、自己処罰的な陶酔に過ぎなかった。
佐野元春が「アンジェリーナ」でデビューしたのはそんな時代だった。だが、それが何かの始まりであることに気づいた人は少なかったし、それが何の始まりであるかを知っている人はさらに少なかった。

「どこかのグラビアで」

それはまず、スタイルにおいて画期的な新しさを持っていた。英語混じりのボキャブラリー、平板な日本語に英語的な強弱のアクセントを与えるやり方、「Do What You Like(勝手にしなよ)」に典型的に見られるシラブルと譜割りの呼応、それらはいかにもバタ臭く、なじみのない方法論だったし、単調で予定調和的なニュー・ミュージックに制度化された耳には強烈な違和感を残した。
そうした試みはすべて日本語のロックというテーマに対する佐野の回答であった。アクセントで話される英語に比べて、イントネーションで話される日本語は流麗なメロディには適しても、ビートを持ったロックとは相性が悪い。だから日本語を使ったビート・ミュージックを一定の水準まで完成させようとすれば、彼らはビート感の悪い日本語をどう処理するかという問題に遭遇せざるを得ない。佐野は挿入された英単語の助けを借りつつ日本語を英語のようなリズムで歌うことでその問題に対する彼なりの方法論を示したのだったし、それは日本語のロックの歴史の中でも重要な意義を持つトライアルであった。

歴史を継ぐ者

次に佐野元春の音楽はそれまで日本のポピュラー・ミュージックのメイン・ストリームでほとんど省みられることのなかったバディ・ホリーからビートルズ、スプリングスティーンやコステロに至るロックン・ロールの系譜を極めて正統に継承していた。
もちろん日本でもグループ・サウンズ以降ポピュラー・ミュージックはビートルズを初めとする洋楽の影響を大きく受けてきたし、フォーク、ニュー・ミュージックと連なるユース・ミュージックの流れの中でそうした音楽は一定の市民権を得てきた。しかし彼らが下敷きにしてきたものは往々にして欧米のポピュラー・ミュージックの中でも日本人好みの最もソフトで情緒的な部分、例えばビートルズで言えば「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」や「へルター・スケルター」ではなく「イエスタデイ」や「ヘイ・ジュード」であったりした。また彼らはディランのスタイルを真似る一方でディランが罵声を浴びながらエレキ・ギターを手に歌い出さなければならなかった理由、しばしば過去の曲を原型をとどめないほどに解体して演奏する理由にはまったく頓着しないといったような片手落ちをしばしばやらかした。それは彼らが総体としてのポピュラー・ミュージックの歴史に対していかにわずかな愛情とリスペクトをしか抱いていなかったかということ、そして彼らがいかにそれを前述のような自己愛を語る小道具として剽窃することしかしてこなかったかということを示しているだろう。
それに対して佐野は連綿と受け継がれてきたポピュラー・ミュージック、ロックン・ロールの豊穣な歴史を総体として受容してきた。その結果佐野の音楽はそれまでの日本のアーティストには見られなかったような音楽性の幅を示すことになった。「情けない週末」や「彼女」のようなピアノ・バラード、「Do What You Like(勝手にしなよ)」のようなジャズ・チューン、「君を探している(朝が来るまで)」のようなフォーク・ロック、中でも佐野が最も得意としたのは、「アンジェリーナ」や「悲しきRADIO」に代表されるサックスをフィーチャーしたロックン・ロールである。
サックスをフィーチャーすることで佐野の音楽は、ロックン・ロールという言葉を聞いて当時、そして今も多くの人が考えるような革ジャン、バイク、リーゼントというようなマッチョで暴力的なイメージから自由になり、より都会的で洗練された、インテリジェントな側面を印象づけるとともに、ロックン・ロールの背後にあるR&Bなどのルーツ・ミュージックに対しても佐野がきちんと目配りしていることを示すことにもなっていた(例えば「ナイト・ライフ」)。

さよならレボリューション

第三に、佐野元春はその音楽の中で、党派闘争の終焉と大衆消費社会の出現という社会構造の変化を背景に、団塊の世代と訣別した新しい世代の居場所を都市生活の中に確保すべきことを明確に主張していた。
2枚目のシングル「ガラスのジェネレーション」で佐野はまず「さよならレボリューション」と歌う。それは真の階級対立が存在しない日本で、空想的で不毛な政治闘争、党派闘争に明け暮れた全共闘世代に対する訣別の宣言であった。佐野は更に「Hello City Lights/今夜ここで Get Happy」と続ける。そこにおいて佐野はその新しい世代が都市的なるものを基盤に生きて行くべきことを明らかにしているのである。
では佐野がそこでよりどころにしようとした都市/都会とはどのような場所なのだろうか。僕はこのように考えたい。即ち、都市で生活するということは、自分をめぐるさまざまな関係を自分の手で自覚的に構築して行くということである。そこでは人は自分が何者であるかということに無自覚ではあり得ない。なぜなら、他者との関係があらかじめ環境として与えられていないということは、そこに自分を中心とした価値体系、物語や関係性の体系を自ら作り上げ、その中で自分の居場所を自ら確保しなければならないということだからであり、それはとりもなおさず自分を何者としてそこに位置づけるのかという問題の答えを探すことに他ならないからだ。けだし都市での生活には自己決定の意識的な肯定があり、自己同一化への明確な意志がある。自分であり続けようとしなければすぐに何者でもなくなってしまう張りつめた孤独がある。
そのような孤独を好むかどうかはもちろんそれぞれの自由な選択に委ねられている。しかし、高度に発達したプラグマティックな資本主義/大衆消費社会に生きる新しい子供たちにとって、そのような社会が発達する中で半ば崩壊してしまった大家族主義的な共同体に依拠することはもともとできない相談であり、彼らにとっては親切で暖かい不自由よりもむしろひんやりと張りつめた自由・自己決定こそ肯定されるべきものであったのだとすれば、彼らの居場所はやはり都市生活の中にしか見出され得ないということが必然的な帰結であるように思われる。
都市生活は当然高いリスクをはらんでいる。匿名性の背後に潜む危うさや悪意に背筋が寒くなることもある。張りつめた孤独に耐えられない弱さにつけこんでくる怪しげなカルトや「ぼろもうけの罠」もある。関係性の構築に失敗することだってあり得るだろう。しかし、それでも僕は都会のひんやりとした緊張感の中で自分の物語を探し続けることをこそ僕自身の営為の核として肯定したいし、佐野もまた同じ思いで「この街の灯りに夢をたくして」(「グッドタイムス&バッドタイムス」)と歌ったのではないだろうか。

1980年、そのようにして始まった佐野元春の闘いは、次第に大きなうねりとなってシーンを動かして行くことになる。その時僕は15歳で、深夜放送のラジオから流れる「アンジェリーナ」を聴いていたのだった。



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