logo ただただ圧倒的に演奏していたローゼズ


1995年にロッキング・オンから刊行された「THE STONE ROSES DOCUMENT」に掲載されたライブ・レポート。もともとは雑誌「ロッキング・オン」に投稿して掲載されたものだが(何月号だったか忘れた。掲載誌も売ってしまった)、その後、ローゼズの単行本を出すので転載したいと連絡があり承諾した。ライブ自体は1995年4月29日、ドイツ西部のケルンにあるE-Werkというホールで行われた。僕は当時住んでいたデュッセルドルフからクルマでケルンに駆けつけ、ゴツいドイツ人に囲まれながら一人でライブを見た。もう10年以上前の話である。


開演予定の8時になってもライブは始まらない。僕も含めてだが客のほとんどは8時と言って8時に始まる訳でもないと達観している様子でビールを飲んだりダベったりしている。結局8時30分、それまで流れていたレゲエがアルバム「セカンド・カミング」冒頭のSEに変わった。

そのまま『ブレイキング・イントゥ・ヘブン』に突入かと思いきや、ジョン・スクワイアが聞き覚えのあるフレーズを弾き始める。『憧れられたい』である。余談だがこの曲を初めとしてファースト・アルバムの頃のジョン・スクワイアのギターのタッチがローザ・ルクセンブルグの玉城宏志に似ていると思うのは僕だけではあるまい。ともかくすごい音量で、バスドラが正確にビートを刻み始めると、その度にジーンズが音圧だか地響きだかでビリビリ震えるのである。だがその迫力も、イアン・ブラウンが歌い始めると情けない苦笑いに変わってしまった。

なにしろ歌がヘタなのだ。僕はローゼズをライブで見るのは初めてなのでよく分からないのだが、イアン・ブラウンはあんなに歌がヘタなのか。そしてそれは持ち味として許容されているのか。そうでなければこの日のイアン・ブラウンはよほど体調が悪かったのか、モニターが聞こえなかったか、やる気がなかったかのどれかだろう。「セカンド・カミング」でジョン・スクワイアがほとんどの作曲を手がけたことを考え合わせても、レニに続いてイアン・ブラウンまでがローゼズを去るなんてことにだけはならないで欲しいと祈らざるを得ない。それくらいひどいヴォーカルだった。

話が出たついでにドラムのことについても触れておかなければならないだろう。周知の通りレニがローゼズを脱退し、ロビー・マディックスがドラムをたたいている訳なのだが、結論から言えば、ドラミングそのものにも、マニ、ジョン・スクワイアとのコンビネーションもまったく不安はないと言っていいと思う。突っ込むことも走ることもなく、かなりの手数を出しながらきちんとキープして行くドラミングは、むしろバンド全体のグルーヴをリードしている感さえあった。ロビー・マディックスのドラムが正確にしかも力強くビートをキープしているからこそ、バンドの顔であるジョン・スクワイアのギターも心おきなく鳴ることができる訳だし、全体としてとてもスリーピースとは思えない音の壁ができていくのである。

ライブは『憧れられたい』から何曲かファースト・アルバムの曲を続け、つかみができたところで「セカンド・カミング」からの曲を混ぜて行くといった感じで進行していく。ファースト・アルバムの曲がいかにもギターロック然としたコンパクトなポップソングなのに対して、「セカンド・カミング」の曲はハードでファンキーな、サイズも長めの曲が中心ではあるが、こうしてとり混ぜて聴いても両者の間には不思議なほど違和感はなく、どちらもちゃんと今の音で鳴っている。この曲はどっちのアルバムだったっけと思ってしまうこともあるくらいで、ローゼズはちゃんと連続性の上に成長しているんだと思う。

途中、『デイブレイク』、『タイトロープ』、『エリザベス・マイ・ディア』とアコースティック・セットをはさんでライブは後半に突入して行く。『ラブ・スプレッズ』でジョン・スクワイアのギターのイントロにロビー・マディックスのドラムが乗り切れずやり直しになるハプニングはあったものの、ツアー参加後まだ10日だということも考えると、まあ許せる範囲だろう。それよりは同じ曲でイアン・ブラウンがエンディングのリフレインをつかめずに、演奏だけが勝手に終ってしまったことの方が深刻だろうと思う。

それを除けばライブはツアー序盤とは思えない圧倒的な存在感を示して、1時間30分ほどで終了した。アンコールなし。「セカンド・カミング」の隠しトラックが流れる中、客電が灯り、バラしが始まった。

書き忘れたが、セットはライブのオープニングに線香花火のようなスパークがステージ中で弾ける演出を除けば、スモークと照明だけの至ってシンプルなものである。それもステージから客席に向けて照明が灯されることが多く、ステージの様子がかなり見にくかった。

全体として印象に残ったのは演奏の確かさである。演奏がマズいといろいろとエフェクトをかけて修正しなければならないので音がくぐもってしまう。しかしローゼズの場合はドラムもギターも実に堂々と奔放に鳴っているので、そのまま音量を上げても十分に耐え得る訳である。これが音そのものにみなぎる自信、存在感の源になっているのだと思う。

僕はストーン・ローゼズというバンドは常に日常と地続きの場所にいるべきだと思っている。そしてそのありふれた佇まいから圧倒的なロックが鳴らされる瞬間にこそ、僕たちは自分とロックの当事者的な関係を発見できるのだと思う。そうした意味では、音楽のフォーマットがどうであれ、ローゼズは精神性において確実にパンクの子供であり、レッド・ツェッペリンとの比較は表層的なものに過ぎない。MCらしいMCもなく、メンバー交替についてのコメントもなく、1時間半ただ圧倒的に演奏してアンコールもなく去ったローゼズ。その清々しさを僕は単純にカッコいいと思う。

80年代から90年代への橋はまだ架けられていない。それはストーン・ローゼズによって架けられるべきだと、このライブを見て僕はそう思った。



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