logo 2004/5/29 僕らの音楽


鳥越俊太郎をホストとするインタビューと3曲のスタジオ演奏を組み合わせた30分の番組。23:30からの放送予定であったが、スポーツ中継の延長のため0:00から放送された(したがって正確な放送日は5月30日)。演奏曲は「SOMEDAY」、「月夜を往け」、「Rock & Roll Night」の3曲(放送順)、演奏はHKB(ドラムは小田原豊)を中心に、ピアノに井上鑑、ブラック・ボトム・ブラス・バンドがブラス・セクションを担当、女性コーラスとストリングスを加えた豪華な編成となった。

演奏は原曲のアレンジにほぼ忠実に行われた。佐野の声は高域の伸びにかなり不安を感じさせるものだったが、それはこの日の演奏がキーを下げずに行われたせいもあるかもしれない。全体に丁寧で真面目なパフォーマンスであり、「SOMEDAY」や「Rock & Roll Night」など、クラシックと呼ばれる曲の持つ楽曲そのものの潜在的な力を十分に伝えきったと思う。僕自身としては「Rock & Roll Night」のアウトロに深い感銘を受けた。

だが、ここで問われるとすれば、今、なぜ、「SOMEDAY」や「Rock & Roll Night」といった曲が演奏されなければならないのかということであろう。新しいアルバムの発表を2ヶ月後に控え、プロモーションすべきアイテムはいくらでもあるはずだ。シングル「月夜を往け」こそ演奏したものの、それ以外の2曲がなぜ「SOMEDAY」や「Rock & Roll Night」でなければならないのか。発表から20年以上が経ち、その間に佐野自身がいかに大きな葛藤と曲折の末に遠くまで歩いてきたのだとしても、結局「佐野といえば『SOMEDAY』」なのか。

端的に言って、「佐野といえば『SOMEDAY』」という命題を否定することは難しい。熱心なファン以外の大多数の人にとってはいまだに「佐野といえば『SOMEDAY』」であり「佐野といえば『約束の橋』」である。それは僕たちが他のアーティストに対して持っているイメージを考えても容易に理解できることであろう。

僕もかつては佐野が「SOMEDAY」一曲で語られることに強い反発を持っていた。レコード1枚持っていない連中が「やっぱり『SOMEDAY』はいいよね」なんて言うのに我慢ならなかった。会社の宴会の二次会のカラオケでだれかが軽いノリで「SOMEDAY」を歌ったりすると何か大事なものをけなされたような、台無しにされたような、バカにされたような気分になったものだ。そしてこの曲が持つ過剰な存在感が、佐野元春の本質をスポイルしてしまっているように感じていたのだ。

だから、今でもライブでこの曲をやり続けることには根強い反対論が存在することを僕は理解できる。「アフリカのツメ」で佐野が出てくるたびにこの曲が流れるのを「勘弁してくれよ」と思う人の気持ちもよく分かる。そしてこの日、このまともで真面目な番組ですら、「佐野といえば『SOMEDAY』」であったことに深い失望と嫌悪を感じる人がいたとしても僕は驚かない。

だが、僕はそれにもかかわらず、「SOMEDAY」という曲を肯定したいと思うのだ。なぜなら、この曲は佐野と世界とをつなぐかけがえのない架け橋だからだ。僕たちのような特別な佐野ファンでなくても「SOMEDAY」なら知っている。その事実はとても大事なものだ。僕たちはむしろ、そのような代表曲が存在することを誇りに思い、ファンでも何でもない人がカラオケで「SOMEDAY」を歌ってくれることに感謝しなければならないのではないか。佐野をよく知らなくても、「やっぱり『SOMEDAY』はいいよね」と感じてくれることを素晴らしいと思わなければならないのではないか。

かつて佐野は、「SOMEDAY」という曲についてこう語っている。

「実際、ハートランドを解散したときに、昔の曲を歌うのは一切終わりにしようと思ったこともあった。でも、僕の作った『SOMEDAY』という曲をたくさんの人が大切にしてくれている、それは素晴らしい事実だ。そういう人たちがいて、佐野さん、『SOMEDAY』歌ってよ、というなら僕はそれを引き受けて歌うべきだと思う」

と。あるいはまた、こうも語っている。

「歌うからには懐メロではない、今の、2000年の『SOMEDAY』としてやらなければならないし、それはアーティストとしての僕の力量の問題だ。その日のライブの中で、いかに『SOMEDAY』を必然性のある曲として演奏できるか、そこに至る流れを組み立てて盛り上げて行けるか、それは勝負だし、アーティストとしての僕の責任でもある」

確かに佐野は毎日変わり続けている。佐野自身が見て欲しいのも今の彼であり、聴いて欲しいのは今の曲だろう。僕はそのようにして「最新型の佐野」を常に追い続けてきたファンの一人だ。だが、それらが連綿と続く佐野自身の長い歴史の上に成立しているものであることもまた確かである。佐野を特別に知る熱心なファンでなくとも、彼らの心のどこかに佐野という存在が、「SOMEDAY」という曲が、特別な像を結んでいるのであれば、佐野が「SOMEDAY」を歌うことで、その像を鮮明にアップデートすることはできるかもしれない。佐野が自己充足的なファンのコミュニティに自閉せず、アーティストとして開かれた表現を追求して行くためには、その手続は決しておざなりにはできないもののはずだと僕は思うのだ。

この日の演奏は、2004年の「SOMEDAY」として、2004年の「Rock & Roll Night」として、きちんと説得力のあるものだったと思う。それはこれらの曲が佐野の現在ときちんと結びついているからであり、そこに今でもコンテンポラリーな意味性を盛りこむことのできる普遍的な何かがあらかじめ存在しているからだ。僕は「SOMEDAY」を歌い続ける佐野を支持する。



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