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A LONG VACATION 大滝詠一 1981.3 Niagara / CSCL 1661 ■PRODUCER:大瀧詠一 ■作詞:松本隆(Except 4 by 大瀧詠一) ■作曲:大瀧詠一 |
●君は天然色 ●Velvet Motel ●カナリア諸島にて ●Pap-Pi-Doo-Bi-Doo-Ba物語 ●我が心のピンボール ●雨のウェンズデイ ●スピーチ・バルーン ●恋するカレン ●FUNx4 ●さらばシベリア鉄道 |
どこでもいい、南の暑い日差しを受けて光る海を見ながらテラスでビールを飲むとき、たとえそれがたった1週間の休みで、来週にはまた仕事が始まるのだとしても、自分の中から日常の意味あいがゆっくりと溶け出し、その代わりに取りあえず今ここにいること、ここまでたどり着いたことを肯定できるような気分に包まれる一瞬がある。その時、僕たちは確かに生活から隔絶されているし、そこでは異なった種類の時間が流れている。
「バカンス」という言葉が指し示すものの中核が、そのような日常の位相の変容を必然的に内包しているとするなら、それはもはや単なる「お休み」ではあり得ない。バカンスを経験することで僕たちの「日常」概念は相対化され、僕たちは時間の流れ方にいくつもの種類があることを知ることになるからだ。
優れたリゾート・アルバムは、日常を慰撫するよりは、それを異化するものとして機能するし、また機能しなければならない。そこでは、日常の物語を慰安するための別の物語ではなく、焼き付けられたような強い「シーン」によって、物語そのものが否定されて行かなければならないのである。それが、バカンスの意味であり、リゾートの存在価値に他ならない。
このアルバムで大瀧詠一が積み重ねた一音一音は、そのような強さに満ちている。それは大瀧の試みが正当に認められず、音楽を愛するがゆえに苦労を重ねなければならなかったことへのリベンジであろう。大瀧にとっては、それまでだれも作らなかったような美しいポップ・アルバムを作ること、そしてそれがヒットすることが、移り気で浅薄なリスナーに対する、なにものにも代え難い意趣返しであったのだと思う。
ここでの大瀧の音楽的な試みの中心は、フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドの今日的再解釈である。深いエコーと何重にも重ねられた楽器のダビング、それが一体となって重厚で荘厳な「音の壁」を形成するさまは、その後の大瀧の音作りを決定づける大きな特徴となり、ナイアガラ・サウンドと呼ばれることになって行くのだが、このアルバムで実際にそうした音作りがなされているのは意外にも数曲にとどまることには注意すべきであろう。
もう一つ、はっぴいえんど時代の盟友松本隆の詞が、このアルバムの中で大きな役割を果たしていることも忘れてはならない。ここで松本は日常から流れ込んでくる情緒的なものを徹底して排除し、印象的な「シーン」をひたすら積み重ねることで、日常の物語を断ち切ることに成功している。「渚をすべるディンギー」も、「カナリア諸島」も、「ピンボール」も、多くのリスナーには本来的に縁のないものであるにもかかわらず、そこに彼らが「あり得たかもしれない自分の姿」を書き込めたのは、松本がそこに自分の物語を書き込まなかったからだ。彼はただ「シーン」を構築することで、まるでデジャブのように僕たちの心の奥の何かをとらえ、打つことができたのだ。
しかし、次作「EACH TIME」での松本の詞は見る影もなく情緒的になり、物語を語り始めてしまう。そこでは時間は日常と同じスピードでしか流れない。ただ唯一名曲と言える「ペパーミント・ブルー」で、「そう 大事なこと ぼくはまだ 話し忘れてたよ」という印象的な一行を残して。
「旧い歌の低いハミングに 口笛でハーモニー 重なる音が溶けて消える」。同じ歌で松本はこんなラインも書いて見せた。大瀧の、自らをはぐくんだ音楽に対する深い愛情と、あまのじゃくな反骨精神が起こした奇跡的な化学反応がこのアルバムだとするなら、しかしその二つを結びつけたのが大瀧自身のプロデューサー、アレンジャー、そして作曲家としての能力であったこともまた書かれるべきであろう。
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