logo 紙ジャケ再発を考える


旧譜を紙ジャケットに仕立ててCDを再発売するのが流行っている。試しにタワーレコードのサイトで「紙ジャケット」で検索してみたら8千件近いヒットがあった。AC/DCから小泉今日子まで、アレサ・フランクリンから岡林信康まで、旧譜をリマスターするなら紙ジャケしかあり得ない勢いである。

僕自身、佐野元春と伊藤銀次の紙ジャケ再発盤は発売日にまとめ買いしてしまった。勢いがついて今日は杉真理の紙ジャケも衝動買いした。どれも既にCDで持っている音源である。リマスターやボーナス・トラックで一応付加価値はついているが、例えば佐野の「SOMEDAY」や「VISITORS」は直前に「20周年記念盤」がリマスターで発売されており、当然これも買っているので同じアルバムのCDが3枚目である。銀次だって1993年にデジタル・リマスターでCD化されており、この時にまとめ買いしているので今回は二度目のまとめ買いな訳だ。

もちろんファンとして長年手に入らなかったCDがリマスターされて再発売されるのは歓迎すべきことだろう。歌詞カードや帯までCDサイズで律儀に復刻された紙ジャケ盤はアイテムとしてもコレクター魂をくすぐる。LPレコードのような重厚感はないが、代わりに縮小コピーしたような「可愛い」感があり、何となく嬉しくなってしまうのも事実である。

だが、これは果たしてまともな商売だろうか。僕はそうは思わない。

まず、CDのパッケージとして紙ジャケットは優れているのか。従来、CDのパッケージはCDを固定するトレイにフタがついたプラスティックのケースが主流だった。美観的に優れているかどうかはともかくとして、片手で開閉でき、片手で録音面に手を触れることなくCDを取り出したり格納したりできるという意味で極めて機能的なケースであり、汎用性もあった。ほとんどのCDがこのケースに収納されて発売されることから、収納上も都合がよかった。

これに対して紙ジャケはどうか。CDは中袋に収納された上で紙ジャケットに挿入されている。紙ジャケの口から中袋の端をつまんで引き出し、今度は中袋からCDの録音面に指紋を付けないように気をつけながら「はっ」とか「よっ」という感じで取り出す。LPレコードの時もそうだったが、これは少しばかり注意を要する作業である。

もう一つ、紙ジャケの場合、たいていはジャケットや帯を保護するためにビニルの袋に入っている。この袋の口にノリがついており中にホコリが入らないようフタになっている訳だが、CDを出し入れするたびにいちいち袋の口を開け閉めするので(それも面倒臭いが)この袋がだんだん薄汚れてくるのみならず、ノリ部分にもゴミとかホコリが付着して粘着力をなくしてみすぼらしい状態になってくる。ところがこの袋にはやはりオリジナルのリリース時と同じ内容告知のシールが貼られていたりして簡単に捨てられない。

保護用のビニルの口をペリペリとはがしてジャケットを取り出し、ジャケットを傾けて中袋に入ったCDをつまみ出し、最後に中袋から「おっとっと」という感じでCD本体を滑り出す。プラケースのカパッ、ペコッ、というシンプルなオペレーションに比べるとこの紙ジャケ盤取り出しの儀式は正直言ってウザい。あるいはこの手間もノスタルジーのうちなのか。少なくとも、僕はCDの収納の方法として紙ジャケが優れているとはとても思えない。

当然のことだがCDは聴いてなんぼである。CD棚を飾るために買うのではない。見栄え重視で機能性に劣る紙ジャケは要らない、というのが僕の考えである。

もう一つ、もっと重要な問題がある。こうした紙ジャケ再発盤はいったいだれに向けて企画されているのかということだ。旧譜が新たにリマスターされ、より高い音圧でくっきりと聴けるようになるのは有り難いことだ。残念なことに1980〜90年代に発売されたCDの中には当時の技術的限界からか本当にペラペラの薄っぺらい音しかしないものがたくさんある。こうした音源を丁寧にリマスターし、塩ビのレコード盤と比べても遜色のない豊かな音にして出し直す試みは評価されるべきだ。古いCDを売ってこちらを買い直す価値がある。

そうやって甦った音源はだれのためのものだろう。もちろんそれは長い間古いCDの安っぽい音質に耐えてその音楽を愛してきたオールド・ファンのためのものでもある。だが、それは彼らだけのものではない。

優れた音楽は世代を超えた財産である。僕はビートルズをリアル・タイムで聴いていない世代だが、彼らが残したアルバムを繰り返し聴いている。僕が初めてビートルズを体系的に聴いたのは彼らのアルバムが初めてCD化されたときだった。優れた音楽を優れた音質で、しかも安価にどこのレコード屋でも買えることが豊かな音楽的環境であり、メーカーはそのようにバック・カタログを提供する責任を負っていると僕は思う。新しい世代、潜在的なファンに対し、バック・カタログは常に開かれていなければならない。

ところが紙ジャケ再発の大半は限定盤だ。先に述べた佐野や銀次、杉の紙ジャケだって「完全生産限定」と帯に記載されている。「生産限定」の意味は定かではないが、普通に考えれば、イニシャル・プレスを売り切った後は追加生産せず、所謂メーカー切れの状態になるということなのだろう。これが開かれたバック・カタログの売り方だろうか。これがアーカイブだろうか。どう考えてもこれはオールド・ファンに2枚目、3枚目を売りつけるための一時限りの「企画盤」でしかない。

佐野の旧譜は今でもレギュラー盤がリリースされているが、これらはリマスター前の音源である。銀次や杉に至っては旧譜のレギュラー・リリースはなく、今回の紙ジャケ再発盤を売り切ったらまた旧譜が手に入らない状態に逆戻りするのだろう。僕たちは新しいファンに佐野を紹介するためにわざわざ音質の劣る旧盤を買わせるしかなくなる。銀次や杉を聴かせるために手持ちのCDをコピーせざるを得なくなる。それがメーカーの考えていることなのだろうか。

せっかくリマスターしたのなら、レギュラー盤をこそリニューアルし、いつでも旧譜がいい音質で手に入るようにするべきである。凝った紙ジャケなんか要らない。オリジナル通りに復刻した歌詞カードも(ましてや帯なんか)要らない。こんなものを作っているヒマがあったら、同じ音源を、僕たちの子供たち、そのまた子供たちがいつでも手に取れるように安価なパッケージで継続的にリリースして欲しい。それが、音楽作品という社会的な資産を管理しているレコード会社のやるべきことだ。

レコード会社は紙ジャケ商法による音源の出し惜しみ、切り売りをやめ、優れた旧譜を安価に、広く、安定的に市場に供給するべきである。そのような選択可能性の中でこそ、豊かな音楽文化は育まれて行くのではないか。



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