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残業代ゼロ法案、名前が悪かった 経済界が「敗因分析」  (朝日新聞 2007年1月17日)

法案提出を見送ったのは名前が悪かったから――。一定条件の社員を労働時間規制から外す「ホワイトカラー・エグゼンプション」を巡り、導入を推進してきた経済界でそんな「敗因分析」が広まっている。「高度専門職年俸制」(経済同友会の北城恪太郎代表幹事)といった名称変更案も出てきた。政府内には機を改めて法案提出を探る動きもあり、労組側は「残業代がゼロになる本質をごまかすもの」(連合幹部)と反発している。

17日に東京都内であった社会経済生産性本部の労使セミナーで、北城氏は「ホワイトカラーの仕事は時間ではなく成果ではかるべきだ。残業代がゼロになると言われているが、高度専門職年俸制といったほうがわかりやすい」と発言。議論を深め、将来的には導入する必要があるとした。

旗振り役だった日本経団連からも「残業代ゼロ法案なんて名前を付けられた時点でダメだった」との声が漏れている。


僕は所謂ホワイトカラーだ。もう18年くらいやっているので、いろんな人を見てきた。それで難しいと思うのは、仕事のできる人ほどしんどい思いをしなければならないということ。例えば同じ仕事を与えられても、時間中にできてしまう人と残業しなければできない人がいるとしよう。時間中にできてしまった人が定時に帰ってしまったとすれば、時間中に同じ仕事を片づけられなくて、残業してようやく終わらせた人は時間外手当がもらえるのに、定時に帰った人はもらえないことになる。ちんたら時間を使ってのんびり仕事した方がたくさん給料をもらえる訳だ。

実際にはそうはならなくて、時間中に仕事を終わらせることのできる有能な人には、すぐさま次の仕事が与えられるのが普通である。結局彼も残業する訳だが、そうすると今度は、同じ給料でもやっている仕事の量がまったく異なるということになる。手際が悪いのか要領が悪いのか、他人が1時間で終わる仕事に2時間かけても、働いた時間が同じなら同じだけ給料がもらえる。何だか一所懸命能率を上げて働いた方が損をするような気がしてくる。

もっとも、この状況はいつまでも続く訳じゃない。同じ給料で他人より多くの仕事をこなしてくれた有能な人材はきっと次の機会には昇給なり昇格なりでそれなりの処遇を受けられるだろう。そうに違いない。いや、そう信じていないとやってられない。でも、一定のスピードでラインが流れてきて、仕事の成果が確実に時間に比例する工場労働ならともかく、能力によって成果に差のつく仕事を、仕事にかけた時間で評価するのはいずれにしても根本的にナンセンスだ。これじゃ工夫して能率を上げようというモチベーションが生まれない。

だから、ある種の労働者の労働の価値は、それにかけた時間ではなく、それによって得られた成果によって評価するべきだというのがホワイトカラー・エグゼンプションの考え方の本質だ。だが、今回の「残業代ゼロ法案」騒動で、そういう冷静な議論が果たして行われたのだろうか。もちろん、この法案に問題がない訳ではないだろう。成果で評価されるべき「ある種の労働者」とはどういう人たちなのか、あるいは成果で評価するということが本当に可能なのか、考えるべきことはいろいろあったはずだ。

だが、「残業代ゼロ法案」という美味しいあだ名を付けられたことで、この法案についてのそういう真面目な議論は、一般のメディアではほとんど聞かれなかった。これは恐るべき思考停止だ。この法案の本質は残念ながら「残業代がゼロになること」ではなく、「効率よく働く有能な人材に手際の悪い労働者がぶら下がる現状をどう改善するか」であったはずだ。その意味で「残業代ゼロ法案なんて名前を付けられた時点でダメだった」という経済団体の認識は実に正しいんじゃないかと思う。

でもまあ、悲観することはない。大衆の認識がその程度なら、今度はもっと耳あたりのいいあだ名を先に付けるだけで、きっと問題だらけの法案だって通るんだろうから。



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