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音楽がありオレがある――ポール・ウェラー (朝日新聞 2006年3月31日)

「ミュージシャン稼業のいいところは、自分が自分自身でいられるところだ。自分を表現できる。この年になってさえもな」
「音楽のおかげで、見も知らない人と出会うことができるし、行ったことのない国にも行ける。すごい小さな町に生まれたんだ。そういう町から逃げ出すには、おれみたいな人間には、音楽かスポーツしかなかったのさ」


ポール・ウェラーのライブに出かける前の短い時間に書いている。

昨日、いつの間にか貫禄のついたオヤジ顔のポール・ウェラーのインタビューが朝日新聞の夕刊に出ていた。別にその内容にケチをつける気はない。たぶんポール・ウェラーがこういう内容のことを言ったんだろう。記者がインタビューして通訳が付いたのかテープから起こしたのか、ともかく朝日新聞なのだから翻訳そのものは正確なのだろうと思う。

それは当然の前提としてもこの訳文のひどさは何だ? 「この年になってさえもな」? 「音楽かスポーツしかなかったのさ」? 僕は日本語を話す日本人として40年間生きてきたし、東京に住むようになって4年になるが、こんなもののしゃべり方をする人に会ったことがない。だいたい「〜なのさ」という言葉遣いを実際にする人間が本当にこの日本のどこかにいるのか。

僕は別に職業作家でも翻訳家でもないが、たまにサッカークラブの監督コメントとかを翻訳してこのサイトに掲載することはある。そういえば以前グラードバッハにいたミカ・フォーセルのインタビューを、ネタ元の了解をもらって翻訳、掲載したこともあった。そうした時に何より心がけているのは、訳した文章が日本語の話し言葉として自然かどうかということだ。

もちろん外国人も人間であり、標準語をしゃべっている訳ではないだろうから、そのニュアンス、丁寧な話しぶりなのか、いかにも育ちの悪い野卑な言葉遣いなのか、くだけた若者口調なのか、それを日本語に置き換える必要はあるだろう。だが、もしポール・ウェラーが日本人だったとして、「この年になってさえもな」とか「音楽かスポーツしかなかったのさ」なんてエラそうではすっぱでしかもヘンな話し方をする人であったなら、僕が彼の音楽を今のように信頼したかどうか分からない。

この文章の書き手、訳者には、そうしたニュアンスに対する感覚、商売道具としての言葉に対する敬意や畏れみたいなものがまったく欠けていると僕は思う。「〜なのさ」というのは僕の知る限り今や書き言葉の中での話し言葉(小説の中の会話文とか)としてだけしか使われない一種の「文語」だ。実際の会話ではだれも使わないようなそんなステロタイプを無批判に繰り出すような人間に、ポール・ウェラーのしゃべったことを僕たちに生き生きと伝えることができるのだろうか。彼は本当にポール・ウェラーの英語の口調、言葉遣いを、最もそれに近くそのニュアンスを正確に伝える日本語に置き換えようと努力したのだろうか。僕にはそうは思えない。

それができないなら、いっそニュアンスなんか取っ払ってポール・ウェラーの話した内容だけを普通の文章で正確に書いてくれた方がよほどありがたい。言葉に対して鈍感な人間に、ポール・ウェラーのインタビューなんてして欲しくないし、それを大新聞の夕刊なんかに載せて欲しくない。ま、大新聞なんかに期待する方が無理なのかもしれないけど。

て訳でライブ行ってきます。



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