logo ライブ・エイド再び


ライブ・エイドのDVDを買った。そう、あのライブ・エイドである。そして、バンド・エイドから始まった一連のチャリティものについての議論をまた思い出すことになった。

何が問題なのかを考えてみよう。アフリカの子供たちが飢えていることが問題なのか。もちろんそれも問題だろう。だが、それが問題なら僕たちがここで飢えて「いない」ことも同じように問題であるはずだ。本当の問題は、彼らがそこで飢え、僕たちがここで飢えて「いない」ことだ。世界にそのような絶対的で不可避な歪みがあり、それはどのような善意や努力をもってしても取り除けない。そのことが問題であり、そしてそれはもはや問題ですらないのだ。

そこにある圧倒的なギャップによって世界のあちらとこちらに隔てられた我々は、その世界からの疎外ゆえに、飢える者と飽食する者が等しく不幸である。食べることのできない彼らと、飢えることのできない僕たちは同じように途方に暮れている。彼らも僕たちも、圧倒的に暴力的な歪んだ世界の前に、ただなすすべもなくまったく無力であるという点において等価なのだ。

そうだとすれば僕たちが彼らを「救う」とか「助ける」ということはただの幻想に過ぎない。自分自身をすら救えない僕たちがどうして彼らを救えるだろう。少なくとも価値的な意味合いにおいて僕たちが彼らを救うことなんてあり得ない。僕たちがカネを集め彼らに食糧を送っても、そんなものはただの自己満足であり偽善であり欺瞞に過ぎないのだ。飢える人と飢えない人があり、そのどちらに属するかを主体的に選ぶことができないというところにこそ悲劇の本質があることに僕たちは気づかなければならない。

だが、チャリティ、つまり「救う」ということが価値的な意味で自己満足に過ぎないからといって、それが実際に無益であるとは限らない。自己満足でも偽善でも欺瞞でも、それによって飢える子供が何日か延命できるなら、それは無意味ではない。売名行為が人の生き死にを左右するのならそこには現実的な有用性がある。だからチャリティに出てくるアーティストが豪華な衣装をつけてヘラヘラ笑っていてもそんなことは構わないのだ。大事なことはそれがカネを生み、結果として飢えた子供の元に食糧が届くというただ一点なのだ。趣旨が理解されてようがされていまいがそんなことは関係ない、初めから偽善だと分かっているものに目くじら立てても仕方ないではないか。

村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」にこんな下りがある。議員秘書・牛河の語りだ。「わたしはあられもない下品な欲望が実に立派な結果を生み出す例をいくつも見てきました。またその逆の例もいくつも見てきました。つまり高潔な大義みたいなのが腐り果てた結果を生み出すのも見てきました。正直に言ってだからどっちがいいというようなものでもないんです」。

飢餓を救おうなんて考える必要はない。僕たちはロックを聴きたいし、それが結果的にだれかの飢えた腹を充たすことになるのならそれでいい。所詮その程度のものだと初めから承知した上で見れば、ライブ・エイドだってUSA for Africaだって、現実的にはそれなりに有効なんだろう。「高潔な大義」を振りかざすものを僕たちは警戒しなければならないし、むしろ毛皮の衣装でチャリティに出てくるうさん臭さの方が、僕たちと世界を隔てる構造的な絶望感には似つかわしいのではないかとすら僕は思うのだ。



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