logo ご近所共同体


子供が被害者になったり加害者になったり、いやあな気分になる事件が次々に起こって、もうどれが何の事件だったかもいちいち覚えていられないくらいだ。最近では何といっても奈良で小学一年生の女の子が誘拐され殺された未解決の事件が生々しいが、何にしても子供たちの安全をどうやって確保するかは今や大きな課題である。

子供にGPS端末を持たせて居場所を四六時中把握するなんていうのも今ではもう笑い事ではない。近所の小学校では子供たち全員に防犯ベルを配っているし、無理矢理クルマに連れこまれそうになったときに大声を出す訓練とかも当たり前のように行われている。知らないおじさんに声をかけられてもついて行っちゃダメだよ〜、なんて牧歌的な話じゃないのだ。

で、こないだテレビを見ていたらやはり子供たちをどう守るかという話をしていたのだが、その時のコメンテーターがこんなことを言ってた。「昔は近所はみんな顔見知りで、よその家の子にでも遠慮なく声をかけた。怖いおじさんやおばさんがいて容赦なく叱られたりもしたけど、そうやって近所の子供をしっかり見守っていた。よそ者が入ってくればすぐに分かるという共同体がきちんと機能していた。GPSで子供の居場所を教えるようなハイテクだけでは子供は守りきれない。近所の顔見知りネットワークみたいなローテクが復活しなければ」と。

これを聞いて僕は唖然としてしまった。いや、ふだん見ないニュース番組を不用意につけっぱなしにしておいた僕もよくなかったのだが、こんな寒い意見をゴールデンタイムに堂々と主張してるとは。それもそれなりに名前の通った人が、だよ。だれとは言わないけどさ。

ねえ、僕たちは都市に住んでいる。もうずっと以前に、僕たちは暖かく安全な共同体より、冷ややかでリスクの多い都会での生活を選んだのだ。なぜなら共同体の暖かさの裏側には恐るべき排他性があり、不寛容があり、抑圧があったからだ。僕たちはそれを捨て、リスクはあっても自分の足で立つことのできる都会を居場所に決めたのだ。隣の部屋にだれが住んでいるのかさえ分からない都会で、僕たちの心許ない生を何とか維持して行こう、そこで生き残って行こうと決めて意地を張ってきたのだ。

それだけではない、高度経済成長を背景に都市化、核家族化が進んだ結果、そのような地縁共同体は客観的にも維持できなくなってきた。いや、むしろそのような社会情勢があったがために僕たちのような都市の子供たちが生まれたのだと言っていい。

だから僕たちがやるべきことは共同体の復活を夢想することではなく、そのような都市生活を前提として、隣にだれが住んでいるのかも分からない社会で、近所が顔見知りでない社会で、どのようにして子供たちを守るのかということでなければならないはずだ。いくら安全であっても排他的で不寛容で抑圧的な共同体に僕たちは戻るべきではないし戻ることができる訳もない。問題にすべきなのは、共同体が崩壊したことではなく、共同体が崩壊した後のハイリスク社会に対応するだけのスキルがまだ根づいていないことの方なのだ。

都市化というのは何も大都会だけの話ではない。郊外の新興住宅地でも、大量の外国人労働者が流入している地方都市でも同じことだ。あるいは70年代に作られ今やゴーストタウンと化しつつある「ニュータウン」でも。もはや日本のどこに住んでいても僕たちの抱えるリスクは否応なく等しく高度化し、複雑化している。「昔はよかった」なんて他人事のように言える時代はとっくに終わっていると僕は思う。



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