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「自分探しの旅」暗転、専門家ら「理解に苦しむ」 (読売新聞 2004年10月28日)

 「自分探しの旅に出たい」。イラクで武装組織に拘束された福岡県の香田証生(しょうせい)さん(24)は、友人にそう言って旅立った。治安が悪化し、再三、退避勧告が出されているイラク。救出に向けた取り組みが進む一方で、政府や現地に詳しい人たちからは、その行動は「理解に苦しむ」との声が上がった。(後略)


僕は別に彼の行動を今さら責める気はない。あの国では毎日すごい数の人たちが死に続け、殺され続けていて、そこに行けば僕たちだって例外ではいられないのだということを彼は身をもって教えてくれた。そこはもともと命の値段が恐ろしく安い国なのだ。それより僕がここで書きたいのは彼が言っていたという「自分さがし」についてだ。

このフレーズは別に彼のオリジナルではないだろう。いつの頃からかこの手の物言いをあちこちで耳にするようになった。だけど、僕はこの言い方に異和感がある。正直言ってすごくイライラする。なんでだろうと思って考えてみたのが今回のコラムである。

「自分さがし」という言い方の背景には、どこかに今の自分と違う「本当の自分」というものがあって、それを探し、見つけることで自己実現ができるのだという考え方があるんじゃないかと思う。だが、それでは今ここにいる自分は何なのだろう。「本当の自分」ではない自分、今ここで自分を探している自分は何者なんだろう。

それは頼りなく、滑稽で情けない自分自身に対する言い訳に過ぎない。自分が頼りなく、滑稽で情けないのは分かってる、でもそれは僕が悪いんじゃない、今の僕はまだ本当の僕じゃないんだ、僕は「本当の自分」を探しているんだ、と。それは自分の情けなさや頼りなさ、細い腕や震える声に対する主体的な責任の放棄だ。そのような弱っちい自分自身をすらまともに引き受けきれない人間が、どうして「本当の自分」なんて見つけることができるだろうか。

「青い鳥」を持ち出すまでもなく、「本当の自分」なんてどこか遠くにポコンと浮かんでいるものじゃない。本当もウソもなく、ただ、今ここにいる自分、「なりたい自分」とのギャップに呻吟している自分だけが唯一の自分であり、その自分が気に入らなければ自分で自分のケツをけとばして「何者か」になるしかないのだ。「自分さがし」という言葉の裏には、まるで「本当の自分」という商品、パッケージがどこかの店で売られているかのような、他人任せで受動的な自己実現への態度がうかがわれてならない。

しかし、100パーセントの自己実現をして、現在の自分に満足している人なんてどこにもいないだろう。こうなりたい、こうありたいと思っている自分と今の自分との間に隔たりがあるのはむしろ当たり前のことであり、だからこそ僕たちはそのギャップを埋めようと毎日ドタバタと悪あがきをするのに他ならない。そういう意味では「本当の自分」なんてどこまで行っても手に入らないのだし、僕たちにできることはせいぜいその後ろ姿を見失わないように追いかけ続けることでしかあり得ないのだ。

それは、昨日までまったく見つからなかったものが今日何かの拍子に手に入ったというのとは違う。「本当の自分」を外在的なものとして客体化してしまうことは、今ここにある自分と逃げ水のような「本当の自分」との間にある無限の距離を生の実感で結びつけようとする絶え間のない日々の営みを放棄することだ。「本当の自分」とはだれかがどこかで用意していてくれるものではない。「本当の自分」に出会いたければ、自分自身の中にある弱さに徹底して向き合うしかないのだと僕は思う。



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