ハラワタを抜かれるのはごめんだ2004
「臓器の移植に関する法律」を読んだことがあるだろうか。この法律の第6条第1項はこう定めている。
怖い、実に怖い法律である。この法律のどこを見ても「脳死をもって人の死とする」とは書かれていないのだ。ここではっきり書かれているのは、「脳死した者の身体」は「死体」だということにしよう、ということだけである。 これは何を意味しているのか。何が「人の死」か、ということを考え始めたら大変な議論になって結論が出ないしそうなるといつまで待っても臓器移植なんてできないから、取りあえず脳死した人の身体は「死体」だということにしましょう、臓器移植との関係では脳死した人の身体も立派な「死体」ですよ、だからハラワタを持って行ってもいいですよ、ということだ。 僕は実際に見た訳ではないが、いわゆる「脳死状態」というのはまだ心臓が動いていて体温もあるらしい。医学的にはもう意識が戻る可能性もなく、身体の組織は確定的に「死に始めて」いて、近いうちに心臓も止まって身体は冷たくなり固くなって行くということなのだろうが、僕の素朴な感情からすればこの状態では人は「まだ生きている」。少なくとも自分の近親者がこういう状態にあるときにメスを入れていいですとは僕にはとても言えない。 いうまでもないことだが、「死ぬ」ということは生物として「もう生き返らない」という医学的問題であると同時に、今までそこにある場所を占めていたひとつの存在や営み、関係が失われ、断絶するという社会的問題でもある。それは荘厳で重い問題のはずだ。これ以上待ってると臓器が使い物にならなくなるから、まだ心臓も動いてるし身体も温かいけれど、どうせもう一度目を覚ますことはないし切っちゃっていいでしょ、というのが臓器移植法の基本的な考え方だと思うが、それは「死」というもののこうした社会的な側面をあまりに軽視したやり口じゃないだろうか。 もう確定的に意識が戻らないということは「死」なのか。文学的な物言いを許してもらえるなら、僕たちはだれだって生まれた瞬間から死に始めているのだ。不可逆的に少しずつ死んでいるのだ。仮に「もう元に戻らない」ということが「臓器を取り出してよい」ということの根拠ならば、こうやって呼吸している僕たちからだって臓器を取り出していいことになってしまう。臓器を欲しいがために、「死」とは何かという問題を意識的に回避し、「どうなったら臓器を取り出してよいか」という問題に矮小化することはあまりに不遜な態度であり、結局は僕たち自身の存在を粗雑に扱うことではないのかと僕は思う。 もちろん移植でしか治らない病気にかかって手術を待つ人たちにとってはできる限り臓器提供の機会は多い方がいいだろう。しかし、そのような難病にかかっている人たちの命が尊重されなければならないのなら、事故や病気で脳死に陥った人の最期の命の尊厳もまた同じように重んじられるべきだ。「移植件数を増やすためにも、年齢を制限せずに家族の承諾だけで臓器提供を認めるべき」? この人たちは自分がいったい何を言っているのか分かっているのだろうか。 2004 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |