logo アトムの誕生日


今日、2003年4月7日はアトムの誕生日なんだそうだ。だが申し訳ないことに僕は鉄腕アトムの原作を読んでいない。たぶんアニメだってきちんとは見ていない。だから今日がアトムの誕生日だと言われても思い入れは今ひとつ希薄だ。それよりは「2001年宇宙の旅」に出てくるHAL9000の誕生日(1997年1月12日)の方が数倍リアルに感じられる。ユニットを1本ずつ抜かれて次第に退行して行くHALが「デイジー」を歌い出す。あのシーンには本当に背筋が寒くなった。HALはもう生まれているのだ。

話がそれた。僕にとって手塚治虫とは何よりも「ブラック・ジャック」であり、アニメなら「リボンの騎士」だった。あるいは「火の鳥」であり「アドルフに告ぐ」だった。そういう作品に親しんできた僕にとって、手塚=アトムであるかのようなこの時ならぬ「誕生日騒動」には何となく違和感がある。もちろん「アトム」もただの単純な勧善懲悪の「ロボットもの」という訳ではないだろう。しかし、今日の新聞にあふれかえる「手塚がアトムで描いた2003年の世界に比べて今日の我々の世界は…」式のあまりに表層的で平板な言説は、手塚がそこで描き出そうとしていたものとは最も遠いところにあるものではないだろうか。

僕は手塚の作品をもれなく読破したような熱心な読者ではないから、もちろんこれは僕の勝手な印象に過ぎない訳だが、手塚が一生をかけて描こうとしていたものは、決して科学技術の万能性を楽観的に信頼したバラ色の未来などではなかったはずだ。少年の純粋な夢が自動的に悪を滅ぼし苦労もなくユートピアが実現する気楽な世界でもなかったはずだ。僕が手塚の作品に見出したものはむしろ一人の人間の中にある善と悪、崇高なものと醜悪なもの、強い部分と弱い部分の相克であり、そうした葛藤に引き裂かれる人間存在の本源的な哀しさやはかなさ、やるせなさであった。一人一人の人間のささやかな意思など関係なく暴力的にすべてを押し流して行く時代や運命といったものの圧倒的な存在感であり、その背後にあって万物を貫く不変の法則の冷酷さであった。

「アドルフに告ぐ」を読んでみて欲しい。戦前の神戸で仲良く遊んだ、ともにアドルフという名を持つユダヤ人とドイツ人の二人の子供が、第二次世界大戦の勃発とともに世界の両側に引き裂かれ、激しく憎み合いながら皮肉な運命を生きる様が描かれている。そして第二次世界大戦が終わった後、イスラエルの将校になったユダヤ人のアドルフを、アラブ・ゲリラに加わって追うドイツ人のアドルフ、ここには「人の命は尊い」とか「人殺しはよくない」とかいった通り一遍のヒューマニズムでは説明のつかない、人間の運命と業に対する深い省察がある。

だが、僕を最も動かすのは、そのような過酷な運命の中でも何とかそこに踏みとどまり、自分という人間の生きる意味を懸命に見出そうとする登場人物たちの姿だ。どうしようもない大きな流れの中で自分の意思に反して手を汚すことを余儀なくされながらも、そこに何かの「善きもの」を探しそれをよりどころに少しでも誠実に生きようとする人たちの心のありようだ。僕はそれこそが手塚の伝えたかったことなのだと思う。僕はそれをヒューマニズムとは呼びたくない。それは、そう、ロマンチシズムだ。

ピノキオは冒険の果てに、自らを創造したゼペットじいさんの死に涙することで人間の子供になることができた。しかしアトムは人間になりたいと願いながら果たせず、人間のために命を捨てることを自ら選んだ。アトムの誕生を祝うよりは、アトムの死の意味を僕たちは考えるべきではないだろうか。僕たちは、愚かな人類の子供として。



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