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アフガニスタンの次はイラクだってよ。去年アメリカがアフガニスタンを攻撃したとき僕はそれを支持した。僕だって別に戦争が好きな訳ではないし人が死ぬことを面白いと思っている訳でもない。ただ、僕たちの毎日の生活がアメリカという国と不可分に結びついていて、一方でそうした僕たちのマテリアル・ライフこそがアメリカの戦争を要求し、他方ではアメリカの戦争が僕たちのマテリアル・ライフを支えている以上、僕たちがその便利さや楽しさをエンジョイしながら「戦争反対」を叫ぶのは欺瞞であり自己矛盾であるということを僕は言いたかったのだ。

まあそれはちょっと極論だった訳だが、自分たちがアメリカ的なものにどっぷりと依存しながら戦争にだけ反対することのズルさとそれに気づかない鈍感さみたいなものが僕にはとても気になった。テロリストがあのビルを崩壊させることで僕たちに突きつけて見せたのはまさにそういう無邪気な搾取の構図だったんだし、そういう僕たちののんきさこそが彼らを苛立たせているのだ。標的は僕たちなのだ、ヤツらから見ればアメリカも日本も同じ穴のムジナなのに、どうしてそんなに悠々と「戦争反対」なんて言ってられるんだ、と僕は思っていた。

その思いは今も変わらない。だが本当に困難なのは「無邪気な搾取の構図」そのものではない。僕たちがそのアメリカ的なマテリアル・ライフにがっちりとつかまっていて、そこから逃げ出したい、搾取するのをやめたいと思ってもそこから降りられないということなのだ。

この世界では質素に暮らすということがまったくシンプルでなくなっている。本当に必要なものとそうでないものの境界がひどく曖昧になっていて、僕たちは自分の生存だけを賄う必要最低限の生活というものを見失っている。何を買っても使い道のない高機能や付加価値がこれでもかというくらいくっついてくるし、僕たちは本来生き延びることとは何の関係もないはずのそんな無駄をせっせと消費することで毎日を何とか生き延びている。僕たちが生きるために本当に必要なものはそんな大仰なものではないはずなのだが、もはや膨大なカタログの中から本当に必要なものとそうでないものを見分けることはほとんど不可能に近い。

仮に見分けられたとしても、本当に必要なものだけに囲まれたシンプルな生活はこの垂れ流しの消費生活よりよっぽど高くつく。それは一種の倒錯でありアイロニーだ。そんな飯事みたいなシンプル・ライフに依拠することで自分は大衆消費社会を超克していると本気で思っている人がいるのなら笑止だ。それこそが最も洗練された最先端の消費生活じゃないのか。有機農法、エコロジー、市民運動、草の根、ボランティア…、大笑いだ。

僕たちは都市にとどまり、この果てしない消費ゲームをプレイしながらそこで僕たちの良心や誠実さを表現する方法を探すしかない。自分だけが田舎に引っ込んで自足的なエコ・ライフを実践したとしても、今、日本の社会がこぞってそんな生活に戻ることはできない以上、それはある種の自己満足、マスターベーションに過ぎないのだから。マテリアル・ライフの中で唱えられるべき「戦争反対」を、僕はまだ見つけられていない。

あれから1年以上がたって、世界はどうなっただろう。ビン・ラディンはまだつかまっていないしイスラエルとパレスチナは今日もケンカしている。世界中でテロと内戦が休みなく繰り返され、僕たちは59円になったマクドナルドのハンバーガーを頬張りながら携帯でメールの交換に忙しい。ブッシュは次はイラクだと気勢を上げ、北朝鮮は核開発のどこが悪いと開き直っている。ああ、クレイジー・ワールド…。



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