logo デプログラミングのジレンマ


怪しげな新興宗教にハマってしまった人を連れ戻して洗脳された思考回路を元に戻す作業をデプログラミングというらしいんだけど、北朝鮮から帰ってきた拉致被害者の扱いって何となくそれを思い起こさせるね。カルトに誘拐されぶっ飛んだ教義に脳ミソをヤられてしまった人たちを、教団の手の及ばないところまで連れ戻して説得し、「こっちの世界」の正しさ、素晴らしさを認識させて二度と「あっち側」に戻ってしまわないようにする、と。

デプログラミングというときに連想しがちな拉致、監禁、ハードな詰問といった「逆洗脳」がそこで行われている訳ではないけれど、彼らを共同体から引き離し、毎日家族やテレビカメラや政府の人間が取り囲んで、北朝鮮の悪口と彼らが日本にとどまることの正当性を吹き込んでいる訳だから、言ってみれば僕たちは国を挙げてソフトなデプログラミングをやっているようなものだろう。

仮に僕の子供がカルトにハマったら、僕は迷わず彼を連れ戻しデプログラミングにかけるだろう。1ヶ月や2ヶ月監禁し、手錠をはめ、睡眠を奪ってでも、彼を「こちら側」に引きずり戻すだろう。しかしそれは「こちら側」が「あちら側」より客観的に正しく、素晴らしい世界だからではない。僕自身が「こちら側」の正当性、「あちら側」のうさん臭さを主観的に信じているから、親としての責任において自分の子供を指導しているだけの話だ。

本人の主体性や人格、思想信条の自由や信教の自由の問題として考えれば、デプログラミングは常に困難な問題を抱えている。新興宗教が純真な信者をだまして邪悪な教義を吹きこむのが洗脳ならば、それを力ずくで「解除」するのもまた「本人の意思」に反した行為だ。今そこにあるのは「本人の意思」ではない、洗脳の結果すりこまれた借り物の思想に過ぎない、というのなら、逆洗脳の結果新たにすりこまれる「まともな世界観」だって借り物に他ならない。相対主義的に言えば、それらは思想としてはまったくの等価であり、カルトの教義と我々の大衆消費情報資本主義のどちらかが「よりまとも」であるというのはただの思いこみに過ぎないはずだ。

我々は我々の自由な社会の価値を信じている。だからこそ我々は拉致被害者にそれを確信してもらうべく一所懸命説得している訳だが、皮肉なことに自由な社会の価値を理解してもらうためには彼らの信じている価値を否定しその信念を論破しなければならない。それは彼らの「自由意思」の否定に他ならないのだ。彼らがあくまでそれを捨てないのならば我々には何ができるだろう。自由な社会の価値を認識するまで彼らを拘束し説得を続けるのだろうか。それが果たして「自由な社会」なのだろうか。

「日本は『一時帰国』という約束を破って、拉致被害者を北朝鮮に返そうとしない」という北朝鮮の非難に正面から答えることは難しい。それは我々が我々の社会の「正しさ」、彼らを北朝鮮に帰さないことの自明さを教条的に信じれば信じるほど難しくなるだろう。自由主義が正しくて主体思想が間違っているという前提から出発するとそれは神学論争になる。自由を守るということは時として深刻なパラドックスになるし、我々はそれを知った上で自由を口にしなければならないと思う。



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