学校へ行こう
公立学校が週休二日になるのに合わせて私立学校にも実施を求めるべしという文部科学省の通達を都知事が愚劣だと切り捨てたとか。それなら都立学校で週休二日を実施するのはなんでなんだという気もしないではないがまあこの人の言うことだからなあ。ああ、そうか、この人、私学の出身だったっけ。 ま、それはそれとしても、この4月から実施される新しい学習指導要領の内容が薄っぺらすぎるという批判の声は強いらしい。文部科学省によれば新要領のねらいは、「ゆとりのある教育活動を展開する中で、基礎・基本の確実な定着を図り、個性を生かす教育を充実」することにあるそうなんだけど、果たしてカリキュラムをスカスカにしたり休みを増やしたりすることが「ゆとりのある教育活動」なのか、それで本当に同省の掲げる「自ら学び、自ら考える力」が育成されるのか、確かに首をひねる部分もある。 だが、ここは現実的に考えてみよう。親に甲斐性と自覚があれば子供を塾にでも私学にでも通わせて勉強量を補給できるから、知識層の一番上の部分のレベルというのはそんなに変わるもんじゃない。要は漫然と公教育に子供の成長を委ねてる中間層の教育レベルが全体に下がるということだ。まあ今でも無駄に大学を出てそれが何の役にも立ってない社会人はたくさんいるんだから(ああ、耳が痛い)、「勉強する」ということに主体的な取り組みが要求されること自体はむしろ悪くないと考えることもできる。 もっとも、これが帰結するのは社会の明確な階層化だ。親に教育と地位と収入があり、子供の教育に対する理解と意欲があればその子供は十分な投資を得て高い教育を受けることができる。しかし親にそうしたものが欠けていると子供は公立学校でそこそこの基礎教育しか受けられないのだ。高い教育を受けた者は高い地位、収入を確保するだろうからこの格差は拡大再生産されて行く。それはこれまで平等だと信じられてきた日本の社会に階層が生まれ、拡大・固定して行くことを意味している。 日本の社会が平等だという認識の背景には、国民の教育レベルが平均して高いという事実があったし、それは間違いなく日本という国の成長を支えてきた。しかしそれは一方で本質的に存在する個人の能力差を意図的に無視し、そこから生まれる摩擦を全体構造の中に無理矢理吸収してきた過程でもあった。経済が成長しなくなったとき、それは「デキるヤツの稼ぎにダメなヤツがたかってその結果全体が平均したレベルにある社会」として顕在化するしかなかったのだ。 僕たちが今、直面しているのは、そうした相互扶助システムの放棄に他ならない。本当に勉強したい人は学校がどうであれ自分で勉強すればいいのだから(本当にデキるヤツは学校なんて初めから信用してないんじゃないか)、小学校が土曜日も休みになるとか円周率は「約3」だとか、そんなことはどうでもいいのだが、それはつまり「デキるヤツは自力で稼ぎダメなヤツは容赦なく飢え全体の貧富の差は拡大する」厳しい闘争社会の到来に直結しているということは理解しておいた方がいい。 2002 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |