毎度お騒がせします
まず大手二紙の記事をご覧いただきたい。そこら辺で売られている肉の品種表示が実は極めていい加減だったということが日に日に明らかになりつつある訳だが、まあそれはおいとくとして、今日書きたいのは言葉遣いの問題だ。 朝日では鶉橋社長は「世間を騒がせたこと」を謝罪している。一方、読売では社長は「得意先と消費者を欺き迷惑をかけたこと」を詫びたことになっている。この違いは何なのだろうか。同じ記者会見での発言のはずだと思うんだけど、どちらかの要約の仕方がいい加減なのか、それとも社長は「騒がせたこと」も「迷惑をかけたこと」も両方謝っていて、そのどちらを中心に記事を作るかという視点の違いなのか。 なぜこんなことにこだわるかというと、「世間を騒がせた」という謝罪の仕方がすごく気になるからだ。確かに「お騒がせしてすみません」という謝り方は日本の文化の中にある。自分の手落ちが原因で他人の静穏を騒々しく乱したとき、例えば仕事でミスしたと思って取引先に至急の訂正電話を入れたがよく考えたらやっぱり大丈夫でした、みたいな、さしたる実害はないが余計な手間を取らせたり要らぬ心配をさせたことを詫びるときに使われる表現だと思う。 では、ここで社長が言う「世間を騒がせた」とはどういうことなんだろう。確かに食肉の品種を偽るのは由々しい問題だ。だがそこで社長が謝罪しなければならないのは、「ニセのブランド肉をつかませたこと」、つまり「ウソをついて安いものを高く売ったこと」についてのはずだ。そういう具体的な実害があるのに「騒がせてすみません」じゃないだろう、と僕は思う。 しかし、そういう社長の語法の問題を別にしても、この「世間を騒がせる」という考えそのものに僕は強い違和感がある。過ちがあったのなら謝罪するのは当然だ。結果的に大したことではなくてもその過程で人の手を煩わせたのなら「騒がせた」ことを詫びるのも道理だろう。しかし、一般に「世間を騒がせた」と塩らしく頭を下げる人たちは、「世間」に対していったいどんな具体的な迷惑をかけたというのか。 テレビや新聞がけたたましく騒ぎ立てるのは社長の責任ではない。メディアは商売で騒いでいるのだし、それはそこに「騒いで欲しい」というニーズがあるからに他ならない。騒ぎ立てるネタを提供したことに感謝されることはあっても、そのことを詫びる必要なんて何もないのだ。あんたらが勝手に騒いだだけじゃないですか、と言えばいい(それこそ大変な「騒ぎ」になるだろうが)。 「世間を騒がせた」という物言いには、本当に謝罪するべきことに対する真摯な問題意識も反省もないまま、みんなが怒ってるから取りあえず謝っておくかという便宜的で場当たり的な態度が隠れているし、それで何となく納得してしまう人がいるのだとすればその人はみんなが怒ってるから自分も何となく怒ってみただけの浮き草に過ぎなかったということだ。もちろんそこで「みんな」というのは、「理由は何でもいいから怒りたがっている」大衆であり、メディアがそれを感じ取って「それではこれで怒って下さい」とエサを投げこんでいる訳だから、そんなものは初めからマッチポンプなんだが。 何かを謝るときは何を謝っているのかはっきりさせなければならない。「世間を騒がせて申し訳ない」なんていい加減な謝り方はもうヤメにして欲しいし、逆に本当に大したこともしてない人にはそんな謝り方を強いてはいけないと思う。だって騒ぐのは僕たちが好きでやっていることなのだから。 2002 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |