logo 日本語原理主義宣言


年末の新聞を読んでいたら、「日本語の乱れ」について論じた読者の投稿が掲載されていた。なんでもそれがその新聞に掲載された読者投稿の中で昨年最も反響の大きかったものの一つなんだとか。で、その内容なんだけど、テレビで女性アナウンサーが木造家屋を見ながら「いいですねえ、家が木とかしてるじゃないですかあ」と言ったというのである。「家が木とかしてる」とはどういうことなのか、日本語の乱れもここに極まれりというのが投稿の趣旨であった。

僕は日本語にはどちらかといえば保守的な考え方を持つ人間なので、「家が木とかしてる」は論外としても、いわゆる「ら」抜き言葉は自分では使わない(ように心がけている)し、敬語の使い方なんかもそれなりに気を遣っている方である。「ご注文の方はこれでよろしかったですか」とか「こちら海の幸のパスタになります」なんて言われるとそのウェイトレスがどんなに可愛らしくてもげんなりしてしまう。だから、こんな日本語をテレビから聞かされる身にもなってくれ、勘弁してくれというこの投稿の主の気持ちは大変よく理解できる。理解できるどころかもっと言うたらんかい、という気にさえなる。

もっとも、こんな日本語原理主義者に対しては常々批判が浴びせられている。言葉というのは生き物であり、その時々の流行のようなものを取り込み、変化しながら使われて行くものである、その自然な変化を人為的に押しとどめることはできないし、今使われている「正しい日本語」だって大昔からのそのような変化の結果たまたま今ここにあるかりそめの姿に過ぎないのである、と。

正論である。だが、ここでは微妙に論点がずれている。

仮に問題の女性アナウンサーが、そうした「日本語の乱れ」に関する議論を承知した上で、街で使われているアップ・トゥ・デイトな日本語を放送の現場に持ち込もう、そうすることで日本語の乱れに関する議論や公共放送の日本語に対する役割に一石を投じよう、それこそが自分の使命だと考えて、敢えて言葉のプロとして「いいですねえ、家が木とかしてるじゃないですかあ」と発言したのだとすれば僕はそのような意見に耳を傾けよう。

しかし実際にはどうだろうか。この女性アナウンサーの発言の背後にちらっとでもそんな考えがあったとあなたは思うだろうか。僕はそうは思わない。おそらく彼女はただ単にふだん使っている言葉をそのままマイクに向かってしゃべったに過ぎないのではないだろうか。それが「乱れ」として指摘されることすら意識しないで。

放送という、言葉に拠って立つ業界で、アナウンサーという、言葉に最も敏感であるべき人たちが、ふだんの話し言葉と放送で話されるべき言葉の区別すらつかずいい加減な言葉を公共の場で言い放って恥じるところがない、そのようなプロ意識の欠如をこそ僕は問題にしているのであり、そこにおける教養の絶対的な不足こそを僕は嘆いているのである。言葉でメシを食っている者が商売道具である言葉を粗末に扱っている。それは銀行員である僕がカネをいい加減に扱うのと同じことだ。そしてそのような振る舞いが日本語を貧しくして行く。それは言葉が生き物であること、時代とともに変化すべき宿命にあることとは別の問題である。

言葉は生き物だ。放送で使われる言葉や書き言葉が僕たちの日常の言語感覚と有機的な連関を失ったとき、それらは死んでしまう。だから僕たちは言文一致ということに常に注意を払っていなければならない。しかしそのためには僕たちがこの日本語という豊かな言語に対してもう少しきちんとした敬意と愛情を持たなければならないのではないだろうか。



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