logo 当事者/傍観者


僕の場合、幸いにして身内や親しい友人にはテロに巻き込まれた人もいないようだったし、休暇でアメリカを旅行中だったドイツ人の同僚が帰ってこられなくなっちゃったくらいで、実害というものは何もなかった。そういう意味では今回の対米同時多発テロ(というのが正式な呼び名なのか)も僕にとってはテレビの向こうで起こった事件の一つに過ぎなかった訳で、僕はいつものようにただの傍観者として、野次馬として、そこに映し出される悲劇を眺めているだけだった。

もちろん一度に何千人もの人が亡くなったんだから大事件ではある。しかもそれが自然災害じゃなく、はっきりとした悪意にもとづくテロなんだから大騒ぎになるのも当たり前だとは思う。でも、考えてみて欲しい。世界中ではこれ以外にも毎日たくさんの人が死んでいる。自然災害で、事故で、だれかの故意で、内戦や戦争で、自殺で、病気で、飢えで、そしてもちろん、テロで。中東では毎日のようにイスラエルとパレスチナがテロと軍事侵攻を繰り返しているし(アメリカのテロを契機に停戦が実現したのは皮肉なことだ)、アフリカでも悲惨な殺し合いが続いている国は数え切れない。

ふだんそんなニュースには無関心な人が、今回のテロの被害者だけを悼み、「許せない」と唇を噛んでみせるその便宜主義はいったい何なんだろうと思う。テロで人が死んだニュースのたびに涙を流しているのなら、僕たちの涙なんてずっと昔に涸れ果ててしまっているはずなんじゃないのか。もちろん痛ましい事件の被害者や被災者に共感して涙を流すこと自体を否定する訳ではないけれども、こうやって大々的に報じられた事件だけに大げさに反応できてしまうことが何だかイージーで嘘臭く感じてしまうのは僕だけなのか。

僕たちは所詮事件の直接の被害者ではない。僕たちは現象的な意味では所詮事件の傍観者に過ぎないのに、まるで当事者に成り代わってその悲しみを背負えるような錯覚に陥ってしまうのはただの自己満足に他ならない。行方不明になった恋人の写真を首からぶら下げて泣きながらマンハッタンをさまよう女性の映像を見たとき、僕たちがするべきことは同情やもらい泣きではないはずだ。テレビのこちらで僕たちが涙を流しても、それは抽象的で一般的な涙でしかあり得ないのだ。

だが、それは僕たちがこの事件に無関心であっていいということを意味しない。なぜなら、そういう事件の現象的な側面を超えた意味で僕たちは当事者だからだ。僕たちが遠い国のできごとにこれほど動揺したのはなぜだろう。それは決してそこでたくさんの人が死んだからというだけの理由ではない。それは、僕たちの快適で便利な生活が本当に一瞬で崩壊してしまうような、儚く脆いものだったということ、そして本当にどんなことでも今この瞬間に起こり得るということ、そのことを具体的な映像として見せられたからだ。僕たちがそこにあって当たり前だと思っている日常的な時間と空間、今日そこにあって明日もそこにあるだろうと何の理由もなく思いこんでいる風景が、次の瞬間にでも圧倒的な暴力によって跡形もなく破壊されてしまうという可能性を現実の光景として思い知らされたからだ。それが僕たちの精神に深刻な危機をもたらしたのだと僕は思う。

そしてそういう意味では僕たちはみんなこの事件の当事者なのだ。この事件が焼き付けたものはテロへの怒りや被災者への同情、悲しみなどではなく、僕たちが寄りかかっていたのが実は何の頼りにもならない危なっかしいものに過ぎないということを知ってしまったぞっとするような恐怖なのだ。この事件の後、憂鬱になってしまって何もやる気が起こらないのは、今まで直視しようとしなかったその事実に無理矢理気づかされてしまったことのショックに他ならないのだ。

それを被災者への形だけの追悼や同情にすり替えてはいけない。なぜならその絶望はこれからずっと僕たちとともにあるものだからだ。この事件は現代社会のパンドラの箱を開けたのだ。「タリバーンってもともとはCIAがテコ入れしてたんだよね」みたいな新聞の受け売りを他人事みたいな顔をして得々と語るのはもうやめよう。そんなことは専門家に任せておけばいい。僕たちが「当事者として」やらなければならないのは、世界がこれからどうなるかを心配することではなく、自分がこれからどうするか、どうやってそのとてつもない絶望とつきあって行くかを考えることなんだから。



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