レッサーパンダ 子供の頃、猫を飼っていて、動物が好きだからレッサーパンダの帽子をかぶっていた、んだそうだ。この記事を読んだ瞬間、君はどんな気持ちがした? 僕はすごく、すごおくイヤな気持ちになったよ。 最初、僕はこう思っていた。なるほど、目立つ動物帽をかぶっていれば、仮にだれかに目撃されても印象に残るのは帽子だけだ、帽子を捨ててしまえば他には何の特徴も分からない、なんて頭のいい犯人なんだと。でもそうじゃなかったらしい。犯人は本当に動物が好きで、あのレッサーパンダの帽子をかぶっていた。動物が好きだからといってレッサーパンダの帽子をかぶって街を歩く29歳の男って、いったい。 僕は、自分が想像したような狡猾で冷酷で極悪な人間が犯人だった方がよっぽど納得できたんじゃないかと思う。逮捕されて嬉しかったんじゃないかと思う。でも違った。まだ分からないことがいっぱいあるけど、犯人もまたこの社会でうまく自分の場所を見つけることのできない弱者だった。その暴力がさらに弱い者、無力な者に対して行使されたのだ。そんな犯人が逮捕されたからといって、ホッとしたりスッキリしたりできますか? 僕は全然そんな気分になれないな。 もちろん、彼がやったのは到底許されないことだ。彼は法の裁きを受けなければならない。彼が弱者だからといってそこに何らかの手心が加えられていいとは僕は思わない。「ギョッとした顔をした」からといって包丁で女子大生を刺しちゃうような人間を野放しにはできないだろ、やっぱり(そりゃ、レッサーパンダの帽子なんかかぶってりゃギョッとしても無理ない)。それは彼自身の都合や事情とはまったく別の問題だ。我々の社会は安全でなければならない。少なくとも、何の落ち度もない人間がいきなり動物帽の男に刺されるようなところであってはマズい。そういう不安は取り除かなければならない。それが治安の維持ということの意味だ。 しかし、この割り切れなさは何なんだ。彼を、仮に死刑にしてみたところで、この後味の悪さは残るだろう。これから「構造改革」が推し進められ、競争原理が行き渡ることによって、敗者、弱者という者の存在は一層ハッキリしてくることになる。「差をつけない」ことで、できる者もできない者もまんべんなく食わせてきた社会がそれゆえに活力を失った今、できる者を明快にアプリシエイトするためにはできない者がやはり明快にデプリシエイトされなければならないということを僕たちは認識するべきだ。そしてそのようにデプリシエイトされた弱者の鬱屈した欲求に、社会は「対応」しなければならないし、そこでセンチメンタルになっている余裕はもはやないのだということだろう。 僕が感じた気分の悪さは、そのような社会の到来に対する嫌悪感なのかもしれないな。 2001 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |