ご都合主義的検定論 僕が中学生や高校生だったとき、日本史の授業で日中戦争や太平洋戦争がどう教えられていたか思い出そうとしてるんだけどうまく行かない。そういえば歴史の授業って石器時代から始まるから、近現代史のところはだいたい時間が足りなくなって駆け足でやっちゃったりしてる訳で、そこんとこのニュアンスが「進出」だったか「侵略」だったかなんて細かいことにはこだわってられなかったんだろう。たとえ教科書にどう書かれていたとしても、だ。 もちろん僕には僕の歴史観があるし、太平洋戦争についてもそれなりの考えはある。でもまあ、この際それはちょっとおいとくことにしよう。もともと客観的な歴史なんてどこにもないんだからね。それより僕が分からないのは、みんなが教科書検定についてどう思ってるのかということなんだ。 考えてみて欲しい。80年頃に教科書問題が議論されていた頃、中国や韓国は日本の大陸「侵略」を「進出」に書き換えさせた教科書検定にケチをつけたものだ。それは即ち国家が教科書の内容に介入することへのクレームだったのではなかったのか。家永裁判も、要は教科書検定そのものが検閲に当たるから憲法違反だという議論だったような気がするんだがそうじゃなかっただろうか。 ところが今起こっていることは何だろう。中国も韓国も、ある特定の教科書の内容がけしからんからそんなものを教科書にしてはいけないと言っている。それはつまり政府がしっかり教科書の内容をチェックして、「近隣諸国の国民感情」に沿わないものは認めてはいけないという議論であり、要は教科書の内容は国がきちんと管理せんかいということなんじゃないのかな。何だか20年前に言ってたこととまったく逆のような気がするのは僕だけ? 家永裁判を支持した「進歩的」な人たちからも、国家が教科書の内容に介入すること自体が好ましくないのだから、たとえ国粋的な教科書が現れてそれが「近隣諸国の国民感情」を逆なでしたとしてもやっぱり検定はいけないんだよという正論は聞こえてこなかった。まあ、そんなこと言うはずがないとは思うけどね。 だって、彼らにとって重要なのは、結果として自分の考えに合った教科書が作られることであり、そのために検定制度が邪魔ならば制度の存在を批判し、逆にそのために検定が必要なら制度の運用強化を求める、要は制度そのものの是非とかプロセスの正当性とかそういうことには初めっから興味がない訳じゃん。検定を批判するのも検定を要求するのも根は一緒で、所詮は自分たちの気に入る教科書を作らせたいだけのことでしょ。そういう人たちが検閲だの憲法だのまで持ち出して議論するのを聞いてると、僕は憲法が本当に可哀相になっちゃうよ。そういうのをご都合主義っていうんじゃないのかな。 法制度というのは特定の価値観に奉仕するためにあるんじゃない。それはプロセスの正当性を保障することによって、多様な価値観に支えられたオープンでクリアな社会を形作るためのニュートラルなツールに過ぎない。ある特定の結論を得るために便宜的にその制度を批判したり歪めたりする者は、その反動を覚悟しなければならないはずだ。 まあ、中国や韓国が特定の教科書に対して不快感をあらわにし、日本政府がそれに対応することを余儀なくされている現在の情況を考えれば、「教科書検定は検閲に当たって違憲である」と主張した家永教授より、「公教育は全国的に一定の水準を確保することが必要なのだから、その教材である教科書に国が何らかの関与をすることはやむを得ない」とした国側の論理の方が結果的には正しかったんじゃないの。それとも家永裁判を支持する人たちは、きちんと中国や韓国に「教科書の内容に国家が干渉することは検閲に当たるから民主国家である我が国ではそんなことはできません、自分にとって都合の悪い教科書だけをしっかり検定してくれというのは通らない理屈です」と説明してくれるのだろうか。 教科書問題というのは歴史観や公教育のあり方、検閲から内政干渉までを含んだ奥の深いテーマではあるけど、そういう問題を考える以前の話として、論理の一貫性とか議論のオープンさという基本的なルールが守られていないことが僕にはとっても気に食わない。自説を通すためなら強引な議論も辞さないというのなら、そういう人は民主主義者の看板を降ろして欲しい。 2001-2002 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |