logo 新大久保駅の悲劇


日本中であんなにたくさんの人が毎日駅のホームから転落しているなんて知らなかった。もちろんそれは新大久保駅での転落事故を契機に急増した訳じゃないだろうから、要はこれまでもあったのに報道されなかったものが、この事故を契機に報道されるようになったというだけのことなんだろう。そして、そうやって報道されてみると、毎日のようにホームからの転落事故が発生している事実が分かったという訳だ。いや、今はもう「えひめ丸」の事件がニュースの中心だから転落事故の報道は下火になってるけどもね。

で、この事故がどうしてこんなにまで大きく報道されるかというと、転落した人を助けようと線路に飛び降りた人が一緒に電車に轢かれてなくなったからで、さらにいうならその一人が韓国からの留学生だったからだ。これが「ただの」転落死亡事故だったら、ここまで大きくは報じられなかっただろう。

もちろん、線路に転落した人を助けようととっさに飛び降りる行為は文句のない「善行」だ。賞賛されてしかるべきだし、彼らの行為が仮に最終的に悲劇に終わったとしても、その行為に何らかの意味で報いるのは我々の社会の責任だ。善行が報いられない社会では善を行うためのモチベーションが失われる。だからそこには何かの「報い」あってしかるべきだと思う。

だが、繰り返された「美談」報道がその正当な「報い」であったかというとそれは明らかに違う。必要なのはそんな一時的で情緒的な「持ち上げ」や「祭り上げ」ではなく、彼らの遺族が彼らの死から不当な不利益を受けないための長期的で現実的な「手当て」であり、また彼らの死を無駄にしないための安全対策であるはずだ。彼らがどんなにいい人だったかをことさらに調べ出して書き立てたり、大げさな日韓関係の問題にすり替えようとするのは、彼らの死をネタにして消費しようとする行為であり、逆にその死の「意味」を矮小化するものだとすら言えるのではないだろうか。

それにもまして僕が不愉快なのは、そうした「美談」報道が、躊躇なく線路に飛び込む行為を結果として賞揚し、逆にその場にいながらとっさに動けなかった人たちに対する潜在的な圧迫として作用することだ。例えば僕がその場にいたらどうだったろう。僕は極めて優柔不断なウジウジした人間だから、おそらくとっさに線路に飛び込むことなんてできなかっただろう。そのような弱さは多かれ少なかれどんな人にもあるはずで、それこそが人間を人間たらしめている「人間らしさ」に他ならない。「美談」報道は、それが正論であるだけに、そのような人間の弱さ、多様性に対して極めて抑圧的に機能する危険をはらんでいる。正論の正しさを疑わないのは、人間存在の本質に対する省察を欠いた傲慢で平板なモラリズムに過ぎない。

そうした正論ファッショに敏感であるはずのメディアが、こぞって「美談」を追いかける情緒的な報道に走ったとき、僕のようなウジウジした優柔不断な人間にとってこの社会はとても住みにくいところになる。「おまえはあの時なぜ飛び込んで死ななかったのか」と言われるような社会は僕は願い下げだ。



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