民意は重いのか 僕は住民投票というヤツが嫌いだ。何でもかんでもみんなで投票して決めようという無責任な考え方が嫌いだ。ある政策が客観的に正しいかどうか、必要かどうかということと、それを多くの人が支持しているかどうかということとは全然別の話。正しいことはだれが反対しようと断行されるべきだし、失政は仮に全員が賛成しても行われるべきでない。みんなで投票して決めましょうなんてそんな出来の悪い学級会みたいなのはやめてくれ。 もちろん何が正しい政策かを決めるのは簡単なことではない。それは技術的にも難しいし、結局相対的な価値観の問題に帰するところが大きい。だから僕たちには政策の正しさを判断するのに何らかの基準が必要で、僕たちがしかたなく民主主義というフィクションに頼っているのはそのせいだ。こいつがこの住民投票という学級会的ドタバタの親玉なのだ。 だけどこの民主主義という野郎は出来が悪い。だってそこには多数が常に正しいという論理的な必然性が何もないんだから。それでも世界中の国がこぞってこいつを採用しているのは、統治の正当性を保障するうまい仕組みが他に見当たらないからだ。でも国の命運を1億人の素人の多数決に委ねるのはあまりにむちゃくちゃだということが実はみんな分かっているから、民主主義というフィクションは選挙というしかけを通じてこそ機能することになってるわけ。 選挙によって民主主義の裏書きをもらった政治家が、しかしプロとしての独立した良心と判断に従って、責任を持って政策を決める。もちろん政治家だの官僚だのが本当にプロなのか、その独立した良心と判断というのは果たして正しいのかという問題はあるけど、ま、それにしたってみのもんたの勧めに乗って焼き鳥を買いに走るおばちゃんが紙に賛成だの反対だの書いて投票するよりよっぽどマシだと僕は思うけどね。 前にどこかに書いた気もするが、大衆というのは昔からどこの国でも移り気なものだ。情緒的な扇動に動かされやすく、根拠のない熱狂に陥りやすい。容易にだまされ、深層の真実より表面の事実、長期的な展望より目先の利益に目を奪われる。そんなヤツらに僕たちの将来を任せられるか。 僕自身、統治の正当性を保障するシステムとして、民主主義以上に「より正当な」フィクションというのは今のところ見出しがたいと思うから、この出来も悪けりゃ効率も悪い、おまけに結果が正しいという保証もない、欠陥だらけのシステムに取りあえずは乗っかって行くしかないのだとは思っているけど、「民主主義」という言葉を自動的にありがたがる人を見るとほんとおめでたいというか幸せな人だなとうらやましくなる。彼らには建設大臣が「民主主義の誤作動」と言った意味は一生分からないだろう。その言葉が今回の問題について正しいかどうかはともかく、そこには、民主主義は誤作動するものだ、いや、極めて誤作動しやすいものだ、我々はとっても危なっかしいものを取り扱っているのだという自覚もなければ「畏怖」もない。民主主義の名の下にナチスを招き入れたのはこういう人たちだったんじゃないの? 僕は民主主義が嫌いだ。だから住民投票も嫌いだ。そしてもちろん「民主主義者」も大嫌いだ。 2000-2003 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |